十八光年

文字数 4,038文字

 当時は決して安くなかったビデオカメラを高野が購入したきっかけは結婚だった。まだ、記録媒体の主流がデジタルカセットの頃だ。
 別の用事で訪れた家電量販店で店員と会話していて、結婚の予定の話をすると、それならこれから絶対使う機会が増えるからとビデオカメラを勧められ(他の新婚向け家電製品も勧められたわけだが)、まあ、そんなものなのかなとそれまでは検討すらしたことのなかったビデオカメラをその場で購入した。
 実際、店員の言った通り、購入したビデオカメラは活躍した。妻、美穂との結婚、新婚旅行、長女の美咲が誕生してからはイベントだけではなく日常のちょっとした風景まで、期間にすれば新しい機種に買い替えるまでの八年間、カセットの数で約三十本分の高野家の記憶がビデオカメラで記録された。
 だが、撮り貯められたカセットが日の目を見ることは、ほとんどなかった。
 ビデオカメラが活躍するということは、それだけ忙しい日々を送っていたということだし、録画したカセットを再生するためには、ビデオカメラを出してきて専用のケーブルでテレビに接続してと意外と手間がかかった。それに手間をかけて準備をしても、カセット型の機種はランダム再生ができないために、お目当てのシーンを探すのが一苦労だった。
 というわけで、二代目のビデオカメラが購入された際には、新製品のランダム再生に対応したフラッシュメモリー型の機種が選ばれるわけだが、この頃には既に家族のビデオ撮影ブームが過ぎ去っていたことを高野が知るのはもう少し後の話だ。
 新しいビデオカメラが家にやってきたことで、三十本のビデオカセットは一代目ビデオカメラと一緒に物置の奥の箱に仕舞われ、さらに表舞台から遠ざかることになった。だが、彼らが高野の記憶から完全に忘れ去られたわけではなかった。それどころか、高野はことあるごとにあのビデオカセットを何とかしないといけないと考えていた。
 それには二つの理由があった。
 一つめの理由は、今は手間をかけてまでは見ようとは思わないカセットの映像だが、歳を取れば見たくなるんだろうなと、うっすらと分かっていたこと。そしてもう一つの理由は、もし仮にそういう日がやってきたときに、カメラやカセットが使える状態にあるかどうかは分からない、という危機感だった。
 何とかする方法がないかと調べてみたら、意外と簡単に見つかった。
 ビデオカセットの中身をPCに落とし込んで保存するためのソフトウェアと接続用ケーブルのセットがネットで売っていたのだ。値段も五千円程度とお手頃だった。うまく取り込めなかったというレビューも結構あったが、駄目でも諦めがつく値段だったし、家の荷物が減らないという理由で、同じくカセット問題の善処を要求してきていた美穂に対するアピールという意味でも必要経費と判断して、すぐに注文した。
 商品は心もとないくらいに小さな箱で届いた。説明書もぺら紙一枚で、親切に説明してくれているという感じではなかった。それでも構成はシンプルで、ソフトウェアのインストールと合わせて十五分くらいで準備は完了した。
 そう簡単にはいかないだろうな。高野はそう思いながら、インストールしたばかりのソフトウェアを立ち上げ録画ボタンを押してから、PCと接続したビデオカメラで昔の家族旅行のビデオを再生した。一拍のタイムラグがあって、PCの画面にまだ幼い美咲が危なっかし気によちよちと歩き回る姿が映し出された。録画は成功した。
 ちょっとした感動だった。カセットとは言えそこはデジタルなので、十五年以上前の自分と家族の過去の映像が鮮明な形で目の前に蘇るという単純な事実に鼻の奥がつんとした。
 それから、あっという間に三十本すべてのコンテンツがPCに保存された。というわけにはいかなかった。それどころか、作業は二本半で中断され、PC接続キットはビデオカメラとビデオカセットと同じ箱の中に片づけられることになった。
 セッティングは簡単だった。その作業の結果得られるアウトプットも十分に満足がいくものだった。だが、致命的な弱点があった。そのキットは、ビデオカセットのデータをPCにデジタルでコピーするのではなく、PCに接続したビデオカメラで再生する映像を録画するという作りになっていたので、六十分のカセットを録画しようとしたら、六十分の時間がかかったのだ。
 六十分、PCの側にいるというのは短いようで長い。というか長い。戦果が二本半という中途半端な形で終わったのも、三本目の録画の途中で出かけないといけない用事が出来たからだった。
 こうして、再び押入れの奥で深い眠りについたビデオカメラとその仲間たち。その、眠りを覚ますことになったのは高野の決心、ではなく単身赴任だった。五十歳を目前に大阪に単身赴任することが決まった時、高野は件のビデオカメラ一味が入った箱を引っ越し荷物の中に入れた。
 単身赴任なら時間がありそうだ考えたということもあった。だが、それ以上に、その無用な箱が自分の留守中に美咲の目につくことで、無用なリモート諍いが起きることを危惧したのだ。ところが事態は高野の思惑とは違う方向で好転する。
 こういうことだ。
 単身赴任の週末は高野が考えていたような暇なものではなかった。それどころか、朝起きてすぐの洗濯から始まり、三食の準備、部屋の掃除、五日分のワイシャツのアイロンなど、美穂はどうやってテニスに出かける時間を作っているのだろうと不思議に思うくらいに家事に追われた。
 ところが、ビデオカセットのPC保存という作業は順調に進んだ。理由は簡単だ。家事というのは、その多くが家の中でする作業だからだ。家事が増えたから必然的に家の中にいる時間が増えた。そして、件の作業は、家事のながら作業にもってこいだったのだ。
 作業は進んだ。そして、作業の途中で高野が目にした数々の映像は、過去にすでにその効果は発揮されていたものの、期待をはるかに上回るものだった。
 今より二十年若い両親や友人に門出を祝福された結婚式、どこかお互いに緊張感のある初々しい新婚生活、真夜中に美穂の陣痛が始まり夜明けに美咲が誕生した日、新米パパママにあやされていた美咲が離乳食を食べ、よちよち歩きを始めるまでの日々。
 それは正に宝物だった。この三十本だけで老後は過ごせるな、高野はそんな風にさえ思った。
 ある二月の週末、新幹線で東京の自宅に戻る高野のPCには、そんな三十本のビデオカセットの映像が保存されていた。自宅のPCにそのデータをコピーしておけば、美穂も見たいときに見れるし、バックアップになるだろうと思った。そしてもう一つ、高野には計画があった。
 いつものように、自宅に帰っても誰かが迎えに出てきてくれるわけでもなかった。高野は荷物を寝室に片づけると、手洗いうがいをしてリビングルームに入って行った。
「ただいま」
「あら、帰ってたの」
 夕食の準備をしていた美穂が振り返りながら言った。
「うん。今さっき。美咲は?」
「部屋でベッドに寝転んでスマホでも見てるんじゃない。どうしたの?」
 娘との関係を断っている(正確には断たれている)高野が、娘の名前を出したことに、美穂はいぶかしげな表情を浮かべた。
「メールにも書いたけどさ、」
「あ、ごめん。読んでない」
「いや、まあそれは別にいいんだけど・・・、ビデオカセットあっただろ。美穂も気にしてたやつ。時間はかかったけど、あれ全部PCにデータで保存できたんだ。で、今日は美咲の十八歳の誕生日だから、美咲が生まれた日の映像を美咲に見せてやろうと思って」
 そう、それが高野のもう一つの計画だった。あわよくば娘との関係を修復しようという下心がゼロだとは言わないが、高野は単純に美咲が生まれた日の映像を美咲と美穂と一緒に見たい、そう思ったのだ。
「興味ないっていうんじゃない」
「まあ、声だけかけてみるよ」
 美咲の部屋に向かうと、高野はノックをして反応を待った。待ったが、反応はなかった。なかったが、ちゃんとノックをしたという事実は残った。その上で、
「おい、美咲入るぞ」
 大きく声をかけてから、かつ必要十分な間隔を空けて、高野はドアを開けた。
「なに?」 
 美穂が言った通りベッドに寝転んだ美咲が、スマホから視線を外すこともなく言った。
「部屋の中を整理してたら、たまたま美咲が生まれた日のビデオが出てきてさ、ほら、今日は美咲の誕生日だろ。良かったら一緒に見ないかなって」
「えー、今じゃないとダメ?忙しいから、今度一人の時見る」
「せっかく、っていうわけでもないけど、お父さんも帰って来てるし。あ、美咲が欲しいって言ってた、コードレスのイヤホン、誕生日プレゼントに買ってきたよ」
「エアポッズ!!?」
 その一時間後、ビデオを美咲と一緒に見終えた高野は、自分の努力が報われたことを知った。
 お目当ての品を手にした美咲はすぐにでも部屋に戻りそうな勢いだったが、なんとかPCに接続したテレビの前に座り留まらせ、ビデオの再生を開始した。最初のうちは、あまり興味もなさそうだったが、次第に美咲が前のめりになって行っていることに高野は気が付いた。
 いつの間にか美穂も加わり途中からは三人での鑑賞会となった。十八年後の家族だった。
 十八年長かったな。ずいぶん遠くまで来たな。でも、俺は幸せだ。高野はそう思った。
「美咲も大きくなったな」
 心の中の思いがそのまま口をついた。
「当たり前でしょ。この私って赤ちゃんじゃない」
 高野の呟きに、珍しくすぐに美咲が反応した。言葉はそっけなかったが、口調は素直だった。
「でも、」
 そのまま、美咲が続けた。
「私もずいぶん変わったけど、それ以上にママのパパに対する態度の方が変わったよね・・・、ってパパどうしたの、私なんか悪いこと言った!?」
 娘に突き付けられた十八年の月日の遠さに、高野は声を絞り出すのがやっとだった。
「いや、目にゴミが入っただけ」
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