パートタイムラバー

文字数 3,362文字

 高校生の娘がお風呂に入っている間に夕食の洗い物を終わらせると、私は冷蔵庫から取り出した白ワインをグラスに注いで、リビングのソファに移動した。
 間接照明だけを残して部屋の明かりを落とし、若かった頃に聞いた洋楽のプレイリストをスマホで再生する。目を閉じて、音楽に耳を傾ける。身を委ねる。代り映えのしない、それでも多忙な毎日の中で、一番落ち着ける時間だ。
 昔の曲を聴いていると、それがたとえディスコで流れていたようなアップテンポなナンバー、当時はイントロを聞いただけで気分が高揚したような曲であっても、静かに心がざわつく。
 過ぎ去った若かりし頃の自分、その時代を、切なく思い返すのでも、ああすれば良かったと悔やむのでもなく、懐かしむのとも惜しむのとも違う、ただ穏やかに心の底に波が掻き立てられるのだ。それが、冷えた白ワインによく合う。
 ワインを二口飲んで、ローテーブルの上のドライフルーツに手を伸ばしたところでスティービー・ワンダーのパートタイムラバーが流れ出した。自然に身体が反応するのが分かった。
 プレイリストの曲はどの曲も懐かしい曲ばかりだが、その中でもパートタイムラバーは特に思い入れが強いというか、付き合いが長い曲だ。何と言っても、一番最初に自分のお小遣いで買った曲なのだ。しかもレコード。
 この曲に限らずだが、レコードで聴いた曲の思い出には独特の手触り感がある。それはきっと、曲を聴くための手順のせいだ。
 レコードプレイヤーの蓋を開け、ジャケットから取り出したレコードをターンテーブルの上に置く。スイッチを入れてアームを上げるとターンテーブルが回り始め、最後にレコードを傷つけないように慎重にレコード針を下ろす。そして小さなノイズのあとに、ようやく曲のイントロが始まる。
 一曲、一枚のアルバムを聴くためにこんなに多くの手順を踏まないといけないのだ。検索して、タッチパネルにポンとは訳が違う。それだけの手間をかけて聴く分、その一回一回が体験として深く記憶に刻まれるのは、ある意味当然だ。
 特に子供の頃の私にとっては、レコードをかけるという行為は、背伸びした大人の世界、非日常だった。
 だから私のレコード体験は、実家の田舎の木造づくりの家らしい湿った香り、隣の田んぼから聞こえてくるカエルの鳴き声、当時はその言葉を知ることもなかった背徳感、そんな多くのあれやこれやと混ざり合い、私の中で今も独特な強い匂いを放っている。
 ところで、パートタイムラバーを知ったのは小学五年生の時、これまた時代を感じさせるが、カセットテープのテレビコマーシャルがきっかけだった。身体全体でリズムを感じキーボードを弾きながら歌うスティービー・ワンダーの周りで、黒人の女性ダンサーが踊っていた。
 私にとって初めての洋楽の出会いだった。それまで聴いたことのリズム、曲調、コマーシャルのスタイリッシュなビジュアルに、私は衝撃を受けた。
 それはただ単に音楽というだけの話ではなかった。それは、世界の話だった。
 今よりもずっと小さな世界で暮らしていた私は、そのコマーシャルで初めて嗅ぎ取ったのだ。どうやら私が住む世界の外側には、私が知らないもので溢れた別の世界がありそうだと。それはまるで、鼻っ柱をぶつけたような、そんな強い衝撃だった。
 次の週末、私は近くの本屋さんのレコードコーナーで、パートタイムラバーのレコードを買った。スティービー・ワンダーのレコードを買うにはまだ幼過ぎたのだろう。レジで商品を受け取った時の、店員さんの少しびっくりしたような表情を、その時の私が誇らしく感じたのをはっきりと覚えている。
 レコード、テープと今となっては歴史的なメディアを通じて出会ったが、その後、CD、MD、そしてデジタルオーディオ、媒体を変えつつも、パートタイムラバーは、いつの時代にも私の傍らにある曲であり続けた。その時々の時代の中で一番のヘビーローテーションではないが、パートタイムラバーが聴きたくなる瞬間があった。
 その瞬間に規則性はなかった、嬉しいときもあれば、悲しい時もあった。テンションを上げたいときもあったし、落ち着きを取り戻したいときもあった。
 そんなバラバラな瞬間に、私はパートタイムラバーを聴きたくなり、そしてパートタイムラバーは、期待を裏切ることなく、いつもそんなバラバラな私の気持に応え、感情を満たしてくれた。
 何千回と聴いてきた曲だから、私のパートタイムラバーには何千の場面がある。その中でも特に印象的なのは、大学の卒業旅行で訪れたニューヨークのバスターミナルだ。
 その日、バスターミナルには雨が降っていた。雨の中、私がバスターミナルを訪れていたのは、帰国を翌日に控え、翌日のJFK行きの高速バスチケットを買うためだった。
 無事チケットは買えたのだが、なんとなくすぐにその場を離れたくなかった。だから、傘をさしたままベンチに座り、無数に行きかうバスと乗客を眺めていた。前の曲が何だったかは覚えていない。覚えているのは、曲と曲のインターバルで、雨が傘を打つリズムに合わせるようにパートタイムラバーが流れ始めたことだ。
 身体の真ん中を貫いた電流に目を覚まさせられるように、私は、私の青春時代が終わろうとしていることを知った。そして、このまま行先の分からないバスに飛び乗って、どこかに逃げ去りたいという猛烈な衝動に駆られた。何から逃げ去りたいのか、どこへ逃げ去りたいかは問題ではなかった。
 実際、私は、ちょうどそのタイミングでバスターミナルに入ってきたバスに乗り込もうと3番のバス乗り場に向かって歩き始めさえした。いや、歩き始めたつもりだった。実際には、私はベンチに座ったままだった。そして乗客の乗降を終えたバスは、私の目の前を通り過ぎて行った。
 あれから25年の月日が流れた。平凡な恋愛、結婚をし、いたって普通の子供が2人いる今の生活に後悔はない。幸せだと思う。それがどれだけ幸せなことか分かる程度の人生経験を私は積んできた。
 だけど、もしあの時後先を考えずに3番のバスに飛び乗っていたら、どんな人生が私を待ち受けていただろうかと、得てもいないものを失った、小さな空洞を抱えているような感じがすることがあるのもまた事実だ。
 30歳を過ぎるまで、私はパートタイムラバーの歌詞の内容を知らなかった。
 英語が全く分からなかった小学生のときはもちろん、高校生や大学生のときも、曲を聴いて意味が分かるようなリスニング能力も、歌詞の意味を調べてみようというマメさもなく、何となく、パートタイムなのでたまにしか会えない恋人同士の曲なのかな、くらいに考えていた。
 それが不倫を歌った曲なのだと知ったのは、ご多分に漏れずインターネットのせいだった。ふとパートタイムラバーの発売年が知りたくなりタイトルを入れて検索をしたら、知りたい以上の情報が無数に羅列された。本当にこれくらい便利で、おせっかいな発明品はない。
 別に歌詞の意味を知ったからと言って、私のパートタイムラバーへの向き合い方に変化はなかった。今でも私は、機嫌の良い時には、キッチンであの特徴的なイントロを口ずさみながら、くるりと小さく回ったりするし、落ち込んでいるときにはBメロで訳もなく目頭を熱くしたりもする。
 私自身には不倫の経験も、願望もない。
 ここが私の居場所なのだ。そういう確固とした手ごたえが私にはある。
 ただ、日常生活の中でぽっかりと空いたエアスポットのような時間、例えば沸き立ったお鍋の火を止めた後、それまで自分が何をしようとしていたのかを忘れてしまったようなときに、ふと、自分がここにいないように感じることがある。
 母であり、妻である自分が不在な時がある。そして、時を経るにつれて、そんな瞬間の頻度は増えているような気がするのだ。
 いつもより飲み過ぎた白ワインのせいだ。そんなことを考えていると、薄い笑みを浮かべた私の口から、どこか芝居がかった言葉がこぼれた。
「私は、パートタイムワイフね」
 いつの間にかお風呂から上がってタオルを頭に巻いて冷蔵庫から牛乳を取り出そうとしていた娘が、その言葉を聞きつけて、不思議そうな表情を浮かべて聞いてきた。
「何それ、パートのおばさんってこと?」
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