バタフライ

文字数 2,853文字

 40歳を過ぎたのに不惑の境地がまったく見えてこない。それに関しては、もちろん色んな要因があるわけだけど、外的な要因の中で最大のやつは、はっきりしている。それは、中学2年生になる娘の佳那だ。
 別に佳那が、他人様に迷惑をかけるような問題を起こすとか、思春期にありがちな、父親に反抗したり・嫌悪感をむき出しにしたりするわけじゃない。むしろ、娘としての佳那には申し分がない。
 成績はいつも学年で上位3位に入っているほど優秀だし、部活動にも熱心で陸上部で活躍している。周りの人に対しての気遣いもきちんとできる上に誰からも好かれる性格で、友達は多く、先生・先輩からは可愛がられ、後輩からは慕われている。
 家の中と外で態度がまったく変わる人もいるが、佳那の場合はそれもない。嫁さんと仲が良いのは当然として、小学4年生の弟、航太の面倒もきちんと見てくれる。そして、何より声を大にして言いたいポイントとして、俺に優しい。
 普段の何気ない会話の中に、家族のために外で頑張っている俺に対しての感謝と労りがにじみ出ている。それだけでも十分なのに、誕生日や父の日と言ったイベントでは、いつも素敵なプレゼントやサプライズで、最近弱くなってきた俺の涙腺を崩壊させるテロリストと化すほどだ。
 あと、年頃の娘に対して下衆なコメントだということは承知の上で言えば、見た目も良い。
 ものすごい美人というのではないけれど、清潔感がある。顔もスタイルも、しゅっとしている。想像で初恋の人を書いてくださいと言うお題が出たら、かなり高い確率で佳那の似顔絵になるんじゃないかと思う。
 つまり、佳那は俺にとって自慢の娘だというわけだ。
 ここまでの話だけだと、佳那が俺を悩ませている理由は分かってもらえないだろう。それどころか、遠回しな自慢話のように聞こえるかもしれない。それももっともだ。ただ、もう一つ佳那に関する情報を加えさせてもらえば、見え方は変わってくると思う。
 佳那は、俺の実の娘ではないのだ。
 となると今度は、俺が血のつながりがないことで佳那のことを可愛がることができずに悩んでいる、みたいな暗い方向に展開しそうなのだけれど、そういう話でもない。
 実の娘ではないと言っても、俺が父親になったのは佳那が三歳の時で、それから約十年、俺は佳那の子供時代を正に佳那と共有してきた。
 その点で、俺の感覚の中で、佳那と実の子供である航太の間に全く差はない。もし仮に差があったとしても、ここまで良くできた娘である佳那を可愛がらずにいるなんて言うことは、俺には不可能だ。
 じゃあ何が問題なんだ、ということになるだろう。
 このことを認めるのは自分自身でも簡単ではないが、勇気を持って言おう。
 そんな自慢の娘である佳那が、俺に全く似てないのだ。しかも、似てない部分が良い。見た目もそうだが、性格も、立ち振る舞いも、ああ良いなと俺が佳那に対して思うところは、ことごとく俺が俺自身に対して否定的な評価をしているところなのだ。
 一方で、航太は俺にそっくりだ。佳那のことがあるから余計にそう見えるのかもしれないけれど、百歩譲って人並みのルックスも、ガサツな性格も、ガサツな成績も、ほんと俺の子供時代の生き写しだ。
 佳那も航太も母親は俺の嫁さんである涼子さんなので、その素質の違いは全て俺に起因しているということになる。
 俺の実の子供というだけで不遇な立場にありながら、優秀な姉に可愛がられて、何も知らずニコニコ笑っている航太を見るたびに、「許せ、航太」と俺は申し訳ない気持ちで一杯になる。
 涼子さんの前の旦那さんで、事故で亡くなられた佳那の実の父親、正彦さんに対して俺が抱く、行き場も解決策もない強烈なコンプレックスも分かってもらえるだろう。
 そんな思いは、表に出さないと俺は心に誓っている。
 もし俺の胸の内の葛藤を知れば、状況を理解している心優しい佳那は、そのことで自分を責めかねない。それだけは、絶対にあってはならないと心底思ってる。し、その部分だけはきちんと守れているはずだ。それは自信を持って言いきれる。
 ただ、涼子さんと二人きり、しかもお酒が入ると、ほんのちょっとだけだけど、心の声が漏れだしてしまうことはある。
「はあ、佳那って、ほんと良い娘だよなぁ」
「自分の娘が、まっすぐに育ってくれて何か不満でもあるの?」
「嬉しいんだよ。ほんと嬉しいんだけど」
「だけど?」
「その素晴らしさが、俺の正反対の素晴らしさだからさ」
「そう?結構、あなたに似てるなって私思ってるんだけど」
「例えば?」
「例えば・・・、ぱっとは思いつかないけど」
 結局のところ、涼子さんにとっては他人事なのだ。実際には涼子さんだって航太の半分を構成しているのだ。だけど、片目をつむれば、佳那の半分だけ見ていられる。
 もちろん、俺だってこんな考え方をしたくはない。でも、とめどなく湧き上がってくる感情を、抑えられるほど人間ができていない。ほんとどこかで不惑を売っているのなら買いたいくらいだ。アウトレットがあれば、なお良し。
 せめて佳那に、一つくらい俺に似ているところがあればなぁと、激ムズ、というか正解がない可能性が高い間違い探しに日々取り組んでは、意気消沈を繰り返しているのです。はい。
 その朝もそうだった。
 その日は、航太の小学校の運動会で、家族で応援に行くことになっていた。普通の中2女子だったら断固拒否するようなシチュエーションだと思うが、さすがの佳那は、友達からの映画の誘いを断ってまでこの罰ゲーム的家族イベントに参加してくれることになっていた。
 それどころか、自分が主役のイベントだというのに、土曜日だからとなかなか布団から出てくることもなく、前日に何の準備もしていない航太の面倒を、朝からせっせと見てくれていた。
 佳那、ありがとう。航太、頼むからしっかりしてくれ。俺にそっくりだけど。
 いつものように、温かな幸福感とどす黒い胃もたれが同居しているような、何とも言えない感じを抱えたまま、その様子を眺めていると、それだけで、自分が一日運動会に出場したくらいに疲れた。
「航太、ほら早く、靴履いて」
 そんな朝早くからの大騒動も、佳那の八面六臂の活躍により、ようやく舞台は最終章である玄関へと進んでいた。
「待って、靴のひもの結び方が、分からないよ」
「お姉ちゃんが、隣で結んであげるから、その真似したら良いから」
 佳那と航太が、二人並んで座って靴ひもを結び始めた。その後ろに、お弁当を手にした涼子さんと俺が並んで立った。
「・・・あれ?」
 涼子さんにだけ聞こえるくらいの声で、俺は思わず呟いた。
 佳那は蝶々結びじゃなくて、縦結びで靴ひもを結んでいた。
 それは、蝶々結びができない、俺と全く同じように。
 しばらくすると、佳那と航太の靴の上に縦向きの蝶々が四尾並んだ。
 何とも言えない感情がこみあげてきて、それをごまかしたくて横を向いた。そしたら、涼子さんと目が合った。
 涼子さんが、「ほらね」と笑ってた。
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