ヒーロー

文字数 2,598文字

 心の底から、その通りだなと納得することなんて少ない。
 学生の頃は、両親や教師たちの言葉に納得できなければ決して受け入れることはなかった。それが自分にとって不利益につながる結果になると分かっていても、反発し反抗した。そういう自分に酔ってもいた。
 社会人になっても、初めの内はそうだった。若いくせに生意気だと言われても、自分が正しいと思うことを、正しいと思うプロセスで進めることに固執した。その場の議論に勝たないと気が済まなかった。それで結果が出なくても、周りが悪いと開き直っていた。
 それがいつの頃からか、相手の言葉に納得ができなくても、妥協して物事を前に進めることを覚えた。議論に負けたふりをして、実を取る方が効率が良いと学んだ。
 多分、大人になったということなのだろう。
 そのことは、良い。ただ、そうなると今度は、人の話を真剣に聞かなくなった。思いを伝えるために、言葉を選ぶことも無くなった。会話に集中しているふりをしながら、次の手を考えるようになった。
 そんな風になってしまったのには、いくつも理由がある。それらの理由は複雑に絡み合ってもいる。だけど、端的に分析すれば、俺は、相手を納得させる手段としての言葉の力を信じられなくなったのだと思う。つまり、俺の中で言葉は権力や金や暴力に屈したというわけだ。
 そのことを踏まえれば、あの時の彼は、二つの意味で俺にとってヒーローだったと言える。
 俺を絶体絶命のピンチから救ってくれたこと。そして、俺に人を納得させることができるという言葉の本来持っている力を思い出させてくれたこと。そんな、二つの意味で。
 その日、二つ下の後輩の海外赴任の壮行会に、俺は複雑な気持ちで参加していた。
 入社してきてから8年、俺はそいつのことを、ずっと目をかけて可愛がってきた。仕事もできるし、人間的にも間違いなくいい奴だ。向こうも、俺のことを先輩先輩と慕ってくれた。そんな後輩の晴れの門出だ、祝ってやりたい気持ちは嘘じゃなかった。実際、歳の近い連中に声をかけて、その場を設定したのも俺だ。
 だけど、心の片隅に、追い越されてしまったという悔しさがあった。実は、そいつが着任することになったそのポジションには、俺もずっと手をあげていた。その悔しさは押し隠した。そいつに気を使わせたくなかった。それ以上に、俺自身が惨めになりたくなかった。
 結果、無理をすることになった。だから余計に、盛大に盛り上げた。いつも以上に酒を勧め、さらにそれ以上に自分も飲んだ。
 二次会、三次会と店を重ね、ようやくお開きになってからも、一人でラーメン屋に入り全部盛りを注文し、トッピングのニンニクを大量にぶち込んだ。結果的にそのニンニクがとどめを刺したんだと思う。というか、ニンニク入りのラーメンを食べたらいつもお腹を下すのだから、そうなることは目に見えていた。
 自暴自棄だ。自殺行為だ。
 終電の時間も近づき、駅に急ぐ道の途中で、猛烈な腹痛に襲われた。
 幸いなことに、飲み屋街の脇にある公園の公衆トイレが目に入った。場所が場所だし、時間も時間だ。清潔なトイレを期待なんてできるはずもなかった。そもそもトイレの衛生状況を確認する余裕もなかった。
 空いていた個室に飛び込み、尻を出したのと排出は、ほぼ同時だった。腸が痙攣するような感触がしばらく止まらなかった。握りしめた金属製の手すりは凍るように冷たく、隣の個室からは胃の内容物をあちらさんは上から吐き出そうとしているのだろう、苦しそうなえずき声が響き渡っていた。
 そんな地獄のような状況にも関わらず、耐えがたかった下腹部の痛みから解放されたことで、得も言われぬ快感が俺の身体を貫き、俺の心は安堵で満たされていた。結局のところ、心は身体に宿るのだ。
 気が付けば泣いていた。おかしいいのやら、悲しいのやら、馬鹿らしいのやら、色んな感情がごっちゃになり過ぎて、何が何だか訳が分からなかった。
 しばらく頭を抱えてうずくまっていた。とっくの昔に、終電の時間は過ぎていた。
 その場所を出て、寝場所を探そう。そう思えたのは、腹に貯まったその日の暴飲暴食と、心の中で膨れ上がった感情を吐き出しきって、少しだけ落ち着きを取り戻したのと、出しっぱなしの尻がたまらなく冷えて寒くなったからだった。
 一息吐いて、トイレットペーパーに手を伸ばした、空振りした。トイレットペーパーが無かった。
「まじかよ・・・」
 腹の底から呟くと、白い吐息が俺の顔の前でフワッと広がって消えた。長かった夏がようやく終わったと思ったら、過ごしやすいはずの秋をすっ飛ばし、いきなり冬が訪れたようだった。この時くらい、地球の環境問題の深刻さを実感したことはなかった。
 トイレットペーパーを探すというよりも、辛い現実から目を背けるために、予備のトイレットペーパーが収納されていないかと狭い個室を見回した。それも一巡では気が収まらず二巡。トイレットペーパーはもちろん、代わりになりそうな新聞紙や雑誌の類も見つからなかった。
 今日はへべれけになるだろうという予感があったので、鞄は会社に置いてきていた。ハンカチもその日に限って、持ってくるのを忘れていた。
 万事休すだった。
 その時だ。
「トイレットペーパーですか?」
 隣の個室から声をかけられた。
 自分のことで精一杯で気にも留めなかったが、言われてみたら断末魔のようなえずき声は、しばらく前から聞こえなくなっていた。酒と、その逆流で声が嗄れていたが、思いの外、しっかりとした話し方だった。
「あ、はい」
 何かを検討するような少しの間を置いて、再び声が聞こえた。
「上の隙間からは狭くてこのままだと渡せないので、紙を隙間から垂らしますね」
 そしてその言葉通り、トイレットペーパーが上の隙間からするすると降りて来た。
 それはまるで、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」で地獄に落とされた男が目にした、救済の一筋の銀の糸のようだった。
 俺は腕を伸ばしてしっかりとトイレットペーパを掴むと、二回三回とそれを腕に巻き取った。
「ありがとうございます。これだけあれば十分です」
「良かった、それじゃあ私は行きますね」
「あの!・・・お名前は?」
 唇の片端を持ち上げて、小さく鼻先で笑うような気配がした。
「名乗るほどの者ではありません」
 たしかに、名乗るほどのことではないな。
 心の底から納得した。
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