文字数 4,011文字

「橘くん、難しいお願いだとは理解しているが、今回のこの異動、ぜひ前向きに受け止めて欲しい」
 就職して7年目、東京から福岡への転勤を私に告げる課長は必死だった。
 どうして今回私が選ばれたのか、どれだけ福岡拠点が私を必要としているか、このミッションを成し遂げたときにどんなキャリアが私に用意されているか。おそらくは事前にしっかりと準備・練習してきたのであろう説明を、私からの質問を待たずに一方的にまくしたてた。
 女性社員の転勤は今でも珍しい。一方で、若手、特に若手女性社員の離職がうちの会社の大きな課題となっている。しかも、自分で言うのもなんだけど、肩たたき目的ではなく(ないと思いたい)転勤の話が出るくらいだから、私の評価は社内でそれなりに高い。
 課長の両肩に、通常のプレッシャーに加え、部長の両手がずっしりと乗せられていることは容易に想像がついた。
 だけど、汗だくの課長を前に申し訳なかったが、私には、今回の内示を受けてのショックや葛藤なんてまるでなかった。それどころか、そのとき私の頭の中に思い浮かんでいたのは、楽しさ満点の福岡での新生活、ただそれだけだった。
 TPOをわきまえなければ、飛び上がって喜びたいくらいだった。
 課長が口にした福岡でのミッションが興味深く、この異動が私のキャリアにとってプラスになるものだったということも、もちろんあった。でもそれ以上に単純な理由があった。課長には言っていなかった(言う暇を与えてもらえなかった)が、私は福岡が大好きなのだ。
 空港から近くコンパクトにまとまった街の構造。東京や大阪といった大都市と比べると、それほど人の数も多くなく、物価も安い。食べ物は、お肉もお魚も美味しくて、もつ鍋のようにその土地ならではの料理があって、それに合わせて飲むお酒も豊富だ。気候は温暖だし、九州には観光地も多い。
 福岡には、いつかは住んでみたい、ずっとそう思っていた。だけど実際問題としては難しいよな、と諦めていた。そうしたら、チャンスが向こうから転がり込んできたのだ。私がどれくらい嬉しかったかは、理解いただけると思う。
 ところで私には、そんな福岡のすばらしさを教えてくれた、福岡の師ともいうべき人がいる。それは、父方の祖母である君江(78歳)おばあちゃんだ。
 一般的なおばあちゃんと同じように、孫である私にはとても優しいおばあちゃんなのだが、一般的なおばあちゃんとは大きく異なる特徴がうちのおばあちゃんにはある。お調子者なのだ。それも重度の。
 子供のころは、夏休みになると、お父さん方の親戚一同が当時はまだ健在だったおじいちゃんの家に集合するのがお決まりだった。従妹は私を最年長に5人いて、仲が良かった私達は毎年おじいちゃんの家で顔を合わし、一緒に遊ぶのを本当に楽しみにしていた。
 おじいちゃんの家は海も山も近かった。普段、東京や大阪で生活していた私たちには、そんな環境はとても開放的で、毎日日が暮れるまで、自然の中を走り回り、へとへとになるまで遊び倒した。都会の生活の中で、子供としての本能に無意識のうちにかけられていたブレーキを私たちは解放していたのだと思う。
 でも、一番浮かれていたのは、間違いなくおばあちゃんだった。
 みんなで外食にいくと食べきれないほど注文して、無理やり全部食べてお腹を壊し、庭で花火をすると興奮しすぎて鼻血を出し、自転車競走では坂道でスピードを出しすぎて縦に一回転した。
 調子に乗ってやり過ぎたときのおばあちゃんは、ドン引きしている私たちを前に、なぜか誇らしげだった。で、毎回その後に、おばあちゃんとはまるで正反対に物静かなおじいちゃんにたしなめられていた。
 そんなおばあちゃんと私は妙に息が合った。子供の頃からしっかりものの長女と認識されていた私が、おばあちゃんと仲良くなれたのは、ある意味で、おじいちゃんとおばあちゃんの関係に近いところがあったのかもしれない。
 大学生になって家族揃って福岡に帰省するようなことが無くなっても、私は一人でおばあちゃんに会いに行き、おばあちゃんは私をかわいがり、色んな所へ連れ出し、福岡の良いところをたくさん教えてくれて、私は福岡が大好きになった。
 まだまだ元気なおばあちゃんとつるんで福岡生活を満喫する、そう想像しただけでも、私は本当にハッピーだった。
 気が付けば、説得(そんな必要まるでなかったのだけれど)を終え、疲労困憊の課長が、心配そうに私の方を見つめていた。その場で快諾して安心させてあげても良かったのだが、今後の交渉に備え苦渋の選択感を出すために、少し考えさせてくださいと課長には言い、席に戻った瞬間に私はネットで部屋を探し始めた。
 そしてその二か月後、駆け引きの結果手にした将来の昇進手形を手に、私は福岡に赴任した。
 そんな風に始まった福岡での生活は、食事も、会社負担のマンションも、通勤も、週末の温泉も、全てが私の期待以上だった。昇進手形よりも、永住保証をもらった方が良かったんじゃないかと真剣に思ったほどだった。
 それでも、私の期待(不安)を一番超えてきたのは、おばあちゃんのお調子者ぶりだった。
 そもそも、それは私が福岡に赴任する前から始まった。
毎日のように電話をかけてきて(おばあちゃんはメールができない)は、貴子がこっちに来たら、これをしよう、あれを食べよう、とその日に思いついた計画を報告してきた。福岡の新しいスポットを紹介する新聞記事の切り抜きを封筒で送ってきたりもした。
 私の赴任を待ちきれない感が、たっぷりと伝わってきた。
 で、あまりに浮かれすぎたのか、私が赴任した日に熱を出してダウンした。
 赴任してからは、毎週(ときには二度三度)私はおばあちゃんに会って、おばあちゃんが立てた福岡エンジョイプランを満喫した。そして会うたび、行く先々で、おばあちゃんはお調子者ぶりを発揮した。
 遊園地では78年間の人生で初めてジェットコースターに挑戦し、デパートでは店員さんが苦笑いするくらい派手な水着を買い、私に懇願して中洲でクラブデビューまで果たした。
 おばあちゃんのお調子者ぶりは、年齢からくる衰えに逆行するように、パワーアップしていた。本当にいつも楽しそうだった。
 おばあちゃんは私が近くにいることが嬉しかったんだと思う。それはほんと私の方が嬉しくなるくらいに。そして、おばあちゃんは今まできっと寂しかったのだ。
 そんな、おばあちゃんのお調子者ぶりの極めつけは、夏祭りだった。
 その週の水曜日の夜に、土曜日に夏祭りに行こうとおばあちゃんからお誘いがあった。そして土曜日の夜、待ち合わせ場所で待っていると、おばあちゃんがいかにも仕立ての良い浴衣を着て現れた。
「わあ、おばあちゃん、良い浴衣だね」
 私が褒めると
「長く着るもんやから、奮発したとよ」
 と、誇らしげに、長生き宣言してくれた。
 夏祭りに来たのなんていつ以来なのか、思い出せないくらいだった。おばあちゃんの話によると、まだ私が小さかった頃に、来たことがある夏祭りだということだったけれど、全く覚えてなかった。でも、どこか懐かしい気がした。
 たこ焼きを食べながら、縁日の屋台を冷やかして、夏祭りの雰囲気を楽しんでいたのだが、ちょうど中央のセンターステージに近づいたところで、アナウンスが聞こえてきた。
「ただいまから、スイカの早食い競争の参加者を募集します!」
 隣を見るまでもなく
「参加します!!」
 おばあちゃんの弾んだ声が聞こえてきた。
 今どきスイカの早食い競争なんて、と甘く考えていた私だったが、いざ大会が始まると、会場ステージを取り囲むように、いったいどこにこれだけの人がいたんだろうというくらいに多くの観衆が集まってきた。
 大会は、年齢別で、若い順に実施された。子供たちの部は微笑ましく、20代、30代の部はさすがに迫力もあり、その熱戦に思わず私も引き込まれるほどで、会場は次第にヒートアップしていき、おばあちゃんが参加する一番上の70歳以上の部を迎える頃には、会場のボルテージは最高潮に達していた。
「おばあちゃん、大丈夫?緊張してない?」
 あまりの会場の盛り上がりに、ステージに向かうおばあちゃんの背中に上ずった声を掛けた私に、おばあちゃんは振り返ってこう言った。
「貴子、ええもん見せたげるから、よう見とくとよ」
 その表情には、何かをしでかす時の、いつものおばあちゃんの笑みが浮かび、そのふてぶてしさに思わず鳥肌が立った。
 結果は優勝、圧勝だった。一分間で、8切れ。70代以上の部では勝負にならない、というか30代の部に出場しても引けを取らない食いっぷりに、会場をどよめきの波が覆った。
 会場の興奮も冷め切らぬ中、ステージの中央では、勝利者インタビューの準備が進められた。
「おめでとうございます。素晴らしい勝利ですね」
 FMラジオで流れてくるような感じの良い司会者の女性の声が、会場に響き渡った。
「年甲斐もなく、大口で食べて恥ずかしかったとです」
 そう応えたおばあちゃんの頬はたしかに紅潮していたけれど、私にはそれが恥ずかしさとは正反対の感情からくるものだということが分かっていた。
「失礼ですが、おばあちゃん、御年齢はおいくつですか?」
 その質問に私は、おっと興味を惹かれ、たぶんおばあちゃんは78歳よりも何歳か若く言うんだろうなと思った。おばあちゃんとはいえ、女性だ。少しでも若く思われたいというのは、女性の性というものだ。
 そして、おばあちゃんの顔に子供がいたずらをするときのような表情が浮かぶのを見て、私の思いは確信に変わった。おばあちゃん、さばを読む気満々だ!!
 ところが、私のそんな確信は見事に裏切られた。
「81歳です」
 さばを読むどころか、まさか、年齢を盛ってきたおばあちゃんに、私は心の中で叫んだ。
 わ、お調子者の性が勝った!!
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