私は貝になれない

文字数 3,952文字

 巡り合ってはいけなかった二人、と言えばどこか背徳的でロマンチックな響きがするかもしれないが、これは全くそんな話ではない。ある種の寓話なのだろうが、より正しく言えば、寓話というよりもグウ(の音も出ない)話だ。
 ことの発端は、川西和香(仮名)という20代後半の女性が受けたセクハラだった。
 川西はフリーランスの秘書だ。几帳面で、出しゃばりはしないけれど社交的な性格の川西は、自分は秘書に向いているだろうと考え、学生時代に秘書検定1級を取得した。大学卒業時には、一般企業に就職する選択肢もあったが、広く世間を見てみたいという気持ちが強く、秘書として派遣会社に登録する道を選んだ。
 仕事は順調だった。学生時代に考えた通り、秘書は川西に向いていた。これまで5つの会社に派遣されたが、業務を的確に、人間関係はそつなくこなし、3つの会社では契約終了時にそのまま就職しないかと誘われたほどだった。
 川西自身も満足していた。仕事はやりがいがあったし、勤務した会社はどこも業界が違い、希望通りに様々な世界を垣間見ることができた。評価が高かったので給料は契約ごとに上がったし、契約と契約の間には、休みを取って長期の海外旅行を楽しんだ。
 すべてが順調だった。6社目までは。
 川西が次に派遣されたのは、中堅の印刷機器メーカーだった。業界で確固たる地位を確立した老舗のファミリー企業でありながら、新しい技術・事業にも積極的にチャレンジするその姿勢は、マスコミに取り上げられることも多く、日経新聞が愛読書の川西も契約が決まった時から働くことを楽しみにしていた。
 実際、入社時のオリエンテーションで説明された会社のビジョンには強い感銘を受けた。最近、株式を公開せず長期的なスパンで事業を運営することができるファミリー企業が再評価されているが、その典型だと川西は思った。
 しかも担当することになった専務は創業者の孫(30代独身)だということだった。職業的な興味に加え、個人的にも何か良い出会いがあるんじゃないかという淡い期待も正直、川西にはあった。そして、そんな興味や期待は木っ端みじんに粉砕された。
 同社専務-村林明彦は典型的な駄目三代目だった。
 もちろん三代目がみんな駄目なわけではないし、トルストイがアンナ・カレーニナで不幸について描写したように、駄目な三代目もそれぞれに駄目なものである。だが、明彦は誰がどう見ても、典型的に駄目な三代目だった。
 仕事はできなかった。仕事をしようとする意欲もなかった。仕事をしようとする意欲があるふりをすることもなかった。会社の功労者や上司、先輩を敬うことはなく、創業者の一族風を吹かした。会社のものは自分のものだと考えた。そして、女性社員はバランスシートに記載された会社の資産だと理解し(バランスシートは全く読めなかったが)、当然の権利のように女性社員に手を出した。
 川西が秘書として雇われたのも、前の秘書(正確には前の四人の秘書)が明彦の態度・セクハラに我慢しきれなくなったからだった。
 被害は新しく秘書になった川西にも及んだ。前を通るたびに、明彦の手は川西のスカートに延び、専務室で二人きりの時だろうと、他の社員がいるときだろうとお構いなしで、露骨な誘いをかけられたり、卑猥な言葉を投げかけられたりした。
 今までも、こういうことが全くなかったわけではない。だがそれは、お酒の席での行き過ぎた言動であったり、川西に思いを寄せる恋愛下手な男性の勇み足であったりした。そのどちらのケースでも、川西が相手を真正面から見据え冷静に世の理を説くと、急激に酔いが醒めるかすごすごと退散した。
 川西は今回も同じ対応を取った。ところが、明彦にそれは通用しなかった。温室育ち、純粋培養の面の皮は、それほどまでに厚かったのだ。
 一方で、川西の方にも実害はなかった。川西には、明彦をいなして相手にしない、世間を広く渡り歩いてきたことで育んできたハートの強さがあったからだ。
 給料は良かったし(後から考えれば、セクハラ手当てが含まれていたのだろう)、契約期間は一年だった。仕事をしない専務の秘書業務は大した仕事もなく楽だった。そのまま割り切って、やり過ごすという選択肢もあった。
 だが、川西は責任感の強い女性だった。
 川西自身は我慢できても、川西の後任の秘書に深刻な被害が及ぶかもしれない、と懸念した。というか、社会のためにも会社のためにも明彦を罰せねばならない、川西はそう覚悟を決めた。
 そこからは、証拠集めの日々だった。幸いなことに、蟻が群がるんじゃないかというくらい、明彦の脇は甘かった。特に、手段を講じなくても、社会的に明彦を百回は破滅させられるだろう、音声や画像があっという間に集まった。
 川西は、集まった証拠を阿佐ヶ谷のハラスメント相談所に持ち込んだ。そして、運命の悪戯は、そこで二人を巡り合わせる。
「川西さん、あなたがハラスメントで受けられた心の傷、私たちが一緒にハラスメント」
 相談所所長の大川だった。
 こんな仕事をしているくらいだから言わずもがなだが、大川も責任感の強い人物だった。「被害者の心情に寄り添う」をモットーに、相談所所員に指導もしていたし、自分自身もそれを常日頃から、心がけてもいた。
 駄洒落も、相談所を訪れた被害者の緊張を和らげようとした一面があったことも事実だ。だが、それが一面に過ぎなかったこともまた事実だ。実際、それは「緊張を和らげる」の範囲を大きく逸脱していた。耳障りでしかなかった。苦痛だった。
 それは川西にとっても同様だった。ただ、最初のうちは、まあ目くじらを立てるはずのことでもないと思ってやり過ごしていた。だが、面会の度にしょうもない駄洒落を聞かされ続けると、さすがにこれは他の相談者や大川本人のためにも良くないのではと考えるようになった。
 実際には、考えるだけでなく、それとなく何度か大川にほのめかしもしたのだが、大川にはまるで響く様子がなかった。
 そこである日、(その日も30分の面会で18の駄洒落を聞かされた後)川西は、大川に直言した。
「大川さん。大川さんご自身は気付かれていないことだと思いますけど、大川さんには駄洒落を言う癖があります。その癖は、おそらく日常生活の中でも大川さんの周囲の方に迷惑をかけているはずです。特に、ハラスメント相談所という、心に傷を負った方々の駆け込み寺的な存在であるはずのこの場所では、それは慎むべき悪習であると言わざるをえません。改めていただけないでしょうか?」
 川西の言葉に、きょとんと驚いたような表情を浮かべた大川を見て、川西は自分の言葉が大川に与えた影響の大きさを確信した。ところが、次の瞬間に大川の口から発せられたのは、耳を疑うような言葉だった。
「川西さん、ありがとう。よくぞ言ってくれた。川西さんが胸に抱えられている思いは良くワコール」
 もはや、駄洒落というかセクハラだった。
 明彦の罪はたしかに悪質で重い。だが、被害者の数は限定される。一方で、大川の罪は悪質さの程度こそそれほどではないが、大川の元には、無数のハラスメント被害者が次々と供給されるシステムが出来上がっている。
 社会的なインパクトを考えれば、早急に手を打つべきは大川の方ではないか。
 明彦は、集めた証拠を週刊誌にでも送り付ければ簡単に社会的に抹殺できるだろうと考え(実際に、その後そうした)、川西は標的を明彦から大西へと変更した。 
 一度方針が決まってしまえば、川西の行動は大胆かつ、迅速だった。川西は、大川から駄洒落ハラスメントの被害を受けたと裁判所に告発したのだ。
 この告発は世間の大きな注目を集めた。
 ハラスメント相談所の所長が、よりによってハラスメントで訴えられたという構図にはインパクトがあった。だが、それ以上に、駄洒落ハラスメントと聞いて、自分も当事者なんじゃじゃないかと思い当たる節がある、加害者候補・被害者候補が世の中には溢れ返っていたのだ。
 第一回公判では、傍聴券を求めて裁判所の前に長い行列ができるほどだった。満員というだけでなく、一種異様な熱気に包まれた法廷、検察による起訴状の朗読の後、裁判長の前に立った大川もさすがに緊張の色が隠せなかった。
 裁判長に氏名や年齢と言った自らの基本情報を問われ答える際も、大川の声は震えていた。そして、自らの主張を述べ始めた際には、大川の言葉は語られているというよりも、絞り出しているという方がぴったりなほどだった。
 実際、それは言葉というよりも大川の心の叫びだった。
「先ほど、検察が読み上げられた私の罪状に関しては、申し開きはいたしません。罪を認めます。
 正直に申せば、今回このような形で公式の告発を受けたわけでございますが、これまでも家族や職場の同僚から、遠回しに、時に厳しく咎めを受けてきておりました。そういうことがございますと、その瞬間は、反省もし、また、改めないといけないなという気持ちにもなるのですが、気が付けば駄洒落が口をついてしまっているのです。
 いわゆる人的環境被害を無くすことに人生をかけている私が、自分の身の回りの人たちにご迷惑をおかけしてしまっている。そのことを本当に恥ずかしく思います。出来ることなら、周りに誰もいない海の底で、決して口を開くこともなく生きていきたい。そう、私は貝になりたいです。
 もちろん、実際、貝になれるわけもありません。こんな形で出廷することになった以上、今の仕事も辞めなければなりません。私がいなくなれば、私より適した方が、この仕事を引き継いでくれることでしょう。
 そういう意味で、私は貝ではなくて替えになる。なんちゃって」 
 裁判は即日結審した。
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