サラダからカエル

文字数 4,023文字

 出社すると、青木部長にちょっと話があると呼ばれた。
 特に何も思わず、部長の後について空いていた会議室に入ると、普段見せないような真剣な顔で、部長が言った。
「加地、お前がパワハラしてるって、社内のコンプライアンス委員会に通報があった」
 あまりに現実感が無くて、言葉がうまく耳に入ってこなかった。意味が分からず、ただ足元が崩れるような感触があった。床を見て、膝が震えていることに気が付いた。
「まさか、」
 そう声を絞り出すのがやっとだった。
 本音だった。
 自分で言うのもなんだけど、僕は人間としての器が小さい。特に人間関係には敏感で、自分が他人からどう思われているということをすごく気にする。日常生活の一場面から、これまでの人生の大きな分岐点まで、自分の意志というよりも、周りの目を意識して判断してきたという事例はほんと枚挙に暇がないほどだ。
 僕はこの春、入社十年目でチームリーダーに昇格した。
 チームリーダーになったことで、仕事の責任も範囲も増えることになった。それはそれで大変なことだった。だけど何より、僕にとって大変だったのは、向かい合うべき人の数が増えたということだった。
 今までも、同じチームで働くメンバーはいた。だけど、仕事として深い意味で向かい合うのはリーダーだけだった。ところが、自分自身がリーダーになると、今度はメンバーの全員と向き合う必要が出て来た。
 これが、対人強度の不足する僕には、なによりきつかった。
 昇格を告げられた時点で、そのことは予想できていた。だから、部長から内示を受けたとき、正直なところ、僕の中では嬉しさより心配の方が強かった。傍から見ても一目瞭然だったのだろう、その夜、新入社員の時からお世話になっている先輩から食事に誘われた。
 僕に気を使ったのか、自分自身が照れ臭かったのか、先輩はすぐには本題には入ってこなかった。
 ビールで乾杯して、お店の名物の豆腐サラダと焼き鳥の盛り合わせセットを食べながら、社内の男女関係のゴシップから始まり、地元のプロ野球チームの不甲斐ない成績に対する愚痴を経由して、ようやく先輩はいかにも何気なくという感じで切り出した。
「あれだよ、あれ。リーダーシップなんて言うのは、別にグイグイと引っ張っていくだけがやり方じゃないから。仕事の一つ一つ、メンバーの一人一人と真摯に向かい合って、そんな自分の背中を見てもらって、チームをまとめ上げていくのだって、立派なリーダーシップだから」
 そして、あまりにも何気なさが上手く機能していないことに気が付いたのだろう、飲んだビール以上に顔を赤くして、先輩は慌てて付け加えた。
「ってことを、俺は名古屋の球団の監督様に言ってやりたいわけだ」
 下手くそだなと思った。それでも先輩の言葉は励みになったし、気持ちは嬉しかった。
 自分らしいチームリーダーになろう。覚悟とまではいかないまでも、僕はそう腹を括った。
 それから半年。背中で語れるところまでは到底到達できていない。そのことは誰よりも僕自身が一番良く分かっている。だけど、3人いるチームのメンバー全員と向き合うことからは逃げていない。それは、会議の場面でも一対一の場面でも、仕事の話もプライベートの話にしても、そうだ。
 それにしたところで、困りごとや悩み事を聞いて適切なアドバイスをすると言ったような上司的なものではなくて、良く言って先輩として相談に乗っている程度、より正確に言えば何の建設的な意見も発しはしないがとりあえず話は聞いてくれる隣のお兄さん的なスタンスだ。
 それでも、毎日、何食わぬ顔で事務所を出たとたん、膝から崩れ落ちそうになる。無理をしているのだ。
 メンバーからしてみれば、アドバイスもさることながら、もっとしっかりとした指示や命令をして欲しいと感じていることだってあるはずだ。でも申し訳ないけれど、経験値的にも人間的にも、それを今の僕に求めるのは高望みに過ぎる。文句があれば、僕をチームリーダーに任命した部長に言って欲しい。
 言うまでもなくパワハラは深刻な問題だけど、パワハラーの爪の垢を煎じて飲んだ方が良いくらい、頼りなさ全開男な上司なのだ、僕は。
 そんな僕が!?よりによってパワハラ!?そんなのありえない!!
 何が何だか分からなかった。それでも、世界は、僕の理解を待ってくれたりはしなかった。
 そのまま会議室を出た僕は、部長に付き添われて、人事課に足を運んだ。そこでは、何度か社内で顔を見かけたことがある女性課長が僕を待ち受けていた。
 女性は矢代ですと名乗ると、部長から僕を引き継ぎ、面談室に通した。
「そちらに腰を掛けてください」
 思いのほか優しい表情で矢代課長は言った。
「緊張しないで大丈夫ですよ。これは取り調べでも何でもなく、ただのヒアリングですから」
 そして、説明を促すように、僕の顔を正面から見つめた。
 でも、そう言われても、何に対するヒアリングなのかすら分からなかった。しらばくれっているのではと勘違いされるんじゃないかと心配だったけれど、そのままを伝えるしかなかった。
「そうなんですね」
 あるいは、それも想定の内だったのかもしれない。矢代課長は、それでは、という感じで手際よくPCを立ち上げると、録画映像を僕に見せた。
 それは一週間ほど前に、オンラインで行ったチームミーティングの様子だった。
「これが、ですか・・・?」
 会議の中で、僕と僕を告発した大矢さんという女性メンバーは会話していた。たしかに、僕は大矢さんの意見を採用しなかった。自分で見ても素っ気ない対応に感じられるところもあった。
 でも、それにしたところで、大矢さんや彼女の意見に対してではなかった。ただ僕は、その会議をなんとか円滑に進行しようと必死で、適切なフォローをする心の余裕がなかっただけだ。僕にしてみれば、その映像を見れば、恥ずかしいくらいにそのことがバレバレだった。
 リーダーとしての資質を問われるのは仕方ないかもしれない。
 でも僕は、他のメンバーの前で大矢さんを怒鳴りつけたわけじゃないし、彼女の意見を嘲笑ったりもしていない。
「これでパワハラになるんですか・・・?」
「大矢さんは、傷つかれています」
 矢代課長は僕の質問には答えずそう言った。そして、僕に問いかけた。
「加地さん、どうされますか?」
「どうするか、とは?」
「私たちには、大矢さんの告発を受け、調査し、適切な処置をとる義務があります。加地さん、あなたには、大矢さんの告発を否定し、ご自身の意見を主張する権利があります。本件に関して、大矢さんと戦われますか?」
 全ては、あなた次第です。矢代課長の表情はそう語っていた。
「・・・、少し考えさせてください」
 そう言うのが精いっぱいだった。
 自分の部署に戻った。
 幸いなのか、意図的なのか、大矢さんはその日在宅勤務だった。彼女と直接話をしたい気持ちがゼロだったわけではなかったけれど、どんな対応をすれば良いのか分からなかった。腹が立つというより、僕のことを告発した人物と顔を合わせるのが怖かった。想像しただけで、胃が重くなった。
 大矢さんと戦う?
 とても現実的な選択肢とは思えなかった。
 定時になると、逃げ出すように会社を飛び出した。誰にも会いたくなくて、まっすぐに家に帰った。
 家に帰ると、奥さんの千波さんに声だけかけて、お風呂に入った。身体をというよりも、今日という一日を洗い流したかった。
 お風呂から上がると、既に夕食の準備ができていた。
 食事の時に、昼の間にあった出来事やテレビやネットで見た話題の話をするのは、いつも千波さんの方だ。
 その日もそうだった。
 僕が食事を口に運ぶ目の前で、表情豊かに千波さんが話をする千波さん。でも、僕には食事の味も分からず、千波さんの話も頭に入ってこなかった。
反応もかなりぞんざいだったはずだ。それなのに、千波さんの様子に変わったところはなかった。ひょっとして僕は、千波さんに対して普段からこんなに不愛想なんだろうか?逆にそっちが、心配になってきた。
 とは言え、さすがに何かを感じたのだろう。千波さんは箸を止め、声のトーンを上げた。
「ちょっと、聞いてる!?」
「あ、ごめん、ごめん。仕事でちょっと気になることがあって。で、なんだって?」
「まだ、戦える」
 正面から僕を見据えて、千波さんは言い放った。
 どこで僕の話を聞いたのかは分からない。短い一言だった。だけど、その短い一言は、千波さんが僕の側いてくれるということを、これ以上ないくらいに僕に伝えてくれた。
 今更ながら、僕は一人じゃないし、僕の人生は僕だけのものじゃないことを思い出した。
 僕のためだけじゃなく、千波さんのためにも僕は戦わないといけなかったんだということを、思い知らされた。
 大矢さんを否定するというのではなくて、大矢さんの話もきちんと聞き、僕の思いもきちんと発信する。お互いの考えをきちんと交わす。とにかく、この一件から逃げない。そういう形で、戦おう、そう思った。
「そうだね」
 滲んだ涙を手で拭いながら僕は答えた。
「ちょ、ちょっとどうしたの!?」
「いや、今、千波さん言ってくれたよね。まだ、戦えるって。だから、僕も戦おうって、そう決めたんだ」
 ポカーンとした表情を浮かべて、それから我に返ったように、早口で千波さんはまくし立てた。
「大丈夫!?『まだ戦える』なんて言ってないよ。大体、何と戦うつもりなのよ。ニュース!今日見たニュースの話よ!!」
「ニュース?」
 今度は僕がポカーンとする番だった。
「そう、ファミレスのサラダからカエルが出たって。『サラダカラカエル』って、語呂が面白くないかって言ったの」
 まだ戦える、と、サラダからカエル。
 あまりに下らないので、二人で顔を見合わせて笑った。
 問題は何の解決もしなかった。解決の糸口もなかった。でも、少しだけ気が楽になった。
 家族っていいもんだ。
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