第92話

文字数 660文字

「そう息吸って、吐いて」

 母の苦しそうな呼吸はリズム感を保とうとしても保てない。

 (うな)り声は止まない。

 その呼吸と声は僕の記憶をどんどんと消していく。

 僕は誰だっけ?

「大丈夫、もうちょっとだからね」

 何がもうちょっとなんだ。

 どうにかならないのか、この苦しさ。

 早く出してくれ。

「見えたよ、頭が、がんばれがんばれ」

 そこ引っ掴まないでくれって、痛いってば。

「息吸って、吐いて」

「もうひと息。がんばってお母さん!」

 お母さん!? 

 そうか、僕、産まれるんだ。

 この人の人間の子供として。

 これで八万六千七百・・・ええっと何回目だったかな? 

 もうその数字はここでは必要ない・・・痛いよ!苦しいよ!

 うんうん、うー。ふうふう、ふー。ふんふん、ふん。

「息吸って、吐いて、吸って、吐いて」

 うんうん、うー。ふうふう、ふー。ふんふん、ふん。

「息吸って、吐いて、吸って、吐いて」

 うんうん、うー。ふうふう、ふー。ふんふん、ふん。

 うんうん、うー。ふうふう、ふー。ふんふん、ふん。

「がんばって」

 うんうん、うー。ふうふう、ふー。ふんふん、ふん。あぁっ

「生まれたぞ!」

 生まれた?

「お母さん、生まれましたよ。男の子です。とっても元気な男の子ですよ」

 ふんぎゃぁふんぎゃぁふんぎゃぁふんぎゃぁふんぎゃぁ

「ほらほら、お父さんも聞こえますか? あなたの赤ちゃんですよ」


 騒がしいなぁ、僕には何も見えないよ。

 だけど僕を包む母の手の柔らかな温もりと、もう一つ大きな手の温もりをどこかで感じるんだよな。

 うん、なんだかいいことありそうだ・・・


  了



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み