第75話

文字数 491文字

 僕は母に向かって叫び続けた。

「お母さん、どうか食べてください」と。

 しかし母には僕の声はそれまでと何ら変わらず届かなかった。

 弱っていく母と僕の身体。

 ならばと僕は身体中のありったけの力を込めて母の中で今生(こんじょう)初めてともいえる蹴りを試みた。

 弱く細い筋質が僕を薄く覆い始めていたから或いはと思って蹴ってみたら想像より僕の足が伸びた。

 母のどこかを蹴飛ばしたことは間違いない。
 
 すると母は、「あっ」と久しぶりの声を上げた。

「そうだよお母さん、僕はここで生きているよ」

 僕は念じるように母に呟いた。

 それは母と僕の初めての直截的意思疎通だった。

 母の壊死(えし)しかかっていた意識が少しだけ動き出したことを僕は感じた。

 母の冷たい手が僕と母をまたぐお腹の皮を伝って僕を撫でてくれるようだった。

 ただ、少し遅かったかもしれない。

 命欲しさに頑張った僕の蹴りはそれが精一杯でその後急速に入れ物に残っていた細い生命の何かが失われていくようだった。

 母の意識に遅れて僕の入れ物が壊死(えし)していく感覚を覚えた。

 この生き物の生活用語でいう流産を僕は覚悟した。

 母子家庭とか静生(しずお)とか云っている場合ではなかった。
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