第37話

文字数 772文字

 母は、待合室で順番を待っている間、湿った熱い深呼吸を間断なく繰り返し、僕にこう呼び掛けた。

「逢いたいね」

 僕は母に「逢えるよ」と囁いた。

 その声は届いていないが、僕と母の繋がりはその声を見えない形の違うものにして母の優しい(ひだ)に届けている。

 母にも、また僕にも白衣の天使にしか見えなかったお医者さまが、

「おめでとうございます」と云った時、

 母はそれまで抑えていた感情を抑えきれず、頭を何度も下げて大粒の涙で膝を濡らした。

 受精後四十日の僕も腰を丸めて母と感謝の意を揃えた。

 母の心臓の高鳴りが僕の心の成長を心地よく早めているような気がした。

 母は尋ねた。

「先生、もうどちらか決まっているんでしょうか?」

 医師はにこやかに云った。

「決まっていますよ」

 母は迷いながらも衝動を抑えられなかった。

「教えてもらえたりは、するんでしょうか?」

「教えられないんですよ」

 どうしてですか、と問う母の不安な瞳を制して医師は続けた。

「赤ちゃんは元気です」そう前置きしてから、

「でもまだこれくらいです」

 医師が示した指の隙間は、どうにか向こう側が見えるほどの狭い隘路(あいろ)だった。

 そこに入る自分の赤ちゃんが母にはとても弱々しく感じられて不安な瞳を一層不安色濃くした。

「大丈夫ですよ、6週目だとどんな赤ちゃんもこれくらいです。性別が分かるのは、早くても16週目くらい。その時の赤ちゃんがこれくらい」

 医師の広げた指の隙間は、さっきより広がったが、それでも医師の白衣の胸ポケットに入るくらいの大きさだった。

 そこに入る自分の赤ちゃんが、母にはまだ壊れそうな気がして不安は瞳に残ったままだった。

「そのころになってどうにか男の子の性器か女の子の性器かが判別つくようになります。なので、いま教えてあげたいが教えて差し上げることはできないんですよ。でも実はもう決まっているんです」
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