第16話

文字数 795文字

 しかし短かったけれどクワガタであれたことは幸運だった。

 何故って無闇(むやみ)に他から犯されるほど弱くもないので十分に自己防衛できたし、

 無闇に他をいじめたり捕食したりすることもなかった。

 土中ではまわりに食べるものがいくらでも転がっていたし、

 木に登れば湧き出る美味しい御馳走にありつけた。

 そりゃあ時々、他の奴らとも御馳走を巡って争ったけど、僕は誰にも負けなかった。

 一度傲岸(ごうがん)なカブトムシの奴と徹底的に喧嘩したことがある。

 奴は僕のアゴから腹にかけて大きなツノを差し込み、僕を木から引き剥がそうとした。

 僕は木の表皮に爪を引っ掛けて必死にしがみついて奴をアゴで威嚇(いかく)した。

 僕のアゴと奴のツノが絡み合ってギシギシ唸っていたけど僕は一歩も引かなかった。

 やがて奴が根負けして固い大きな羽根を広げて飛んでいった。

 以来奴は二度と僕の住処(すみか)には来なかった。

 御馳走は奴や僕が食ったくらいでなくなるようなお粗末なものではなかったけど、

 なんだろうな、この星の生き物に生まれた場合は必ず昔から独占欲や縄張り意識のようなものが体の何処かに埋め込まれていた。

 これはなくならなかったけど、

 昔むかしに意味もなく同種を殺戮(さつりく)したりされたりしていた暗澹(あんたん)たる頃から比べて(それが定めの輪廻では仕方ないけど、例えば三十六輪廻前のハムスターの時、僕は母親に食われて娑婆を去った)、近頃は生命の危機が小さくなってきた。

 飢饉に遭うこともないし、貧しくても食べるに困ることはなかった。

 何かに脅かされることも争いに駆り出されることも随分少なくなった。

 そんな輪廻もどこかでたくさんあるとは知っているが、幸い僕には回ってきていない。

 だから、ミヤマクワガタであれたことは本当に幸運だった。

 娑婆での命は短かったけれど安寧に暮らせることができたのだから。

 同じクワガタでもオオクワガタは力こそ強いのだけれど人間に乱獲されていたから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み