第48話

文字数 491文字

 母は前のめりに手をついて膝を打ち、横転した。そのまま仰向けで階段下まで滑り落ち、尻餅をついた。

 妊婦であることなど周りは知るはずもないが母の派手な転び方に驚いた何人かが駆け寄り、

「大丈夫ですか?」と案じてくれる。

 痛みなど感じる隙間もなく母はただ仰天している。

 そばにいた男が母の手を取り引き上げてくれた時、母は「赤ちゃん」と上擦(うわず)った声で叫んだ。察した男は、

「救急車呼びましょうか」

 と云ってくれたが、母は、

「いいえ、ひとりで行けます」

 と云ったなりいま来た道を戻ろうとした。

 母の狼狽ぶりに男は、

「歩かない方がいい。タクシーを」

 そう云って駅前の車をつかまえて母を引っ張って行って乗せた。

 母は気が動転したままに車に乗せられたが、

 行先を尋ねる運転手に「赤ちゃん」と焦点の合わぬ瞳を泳がせている。

 母を助けてくれた男は、
 
「一番近くの産婦人科へ」

 と代わりに告げてくれてが、

 運転手は、

 「次の角ですよ」

 と訝(いぶか)しい顔をする。

「いいから行って」

 そう押し切った男に運転手は料金メーターを倒した。

 母の手元には打ちかけの伝言が色を失くして唯の文字の羅列になり下がっていた。
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