第42話

文字数 488文字

 母の緊張が解けるのと相反し、僕は同じ診察室で母の胎内から重苦しい誰かの声を聞いていた。

 医師ではない。

 看護師でもない。

 他の妊婦さんでもない。

 その声は僕にしか聞こえていない。

 声は言葉ではなく泣き声でもなく娑婆に流れる如何なる物音でもなかった。

 音にならない声が僕に届くのは、それが僕に近似した境遇によって発せられるべき無声だから聞こえるのと、僕がその声を努めて拾おうとしていた両方がある。

(□□□ □□□ □□□ □□□)

 それを何かに換えて伝えることはできそうにない。

 だけど僕はその声を確かに聞いていた。

 声の主は僕以上(はぐく)めず消された命のともがら等だった。

 ここには今般の僕の母とは違い、できた子の出生を望まぬ来院者が数多(あまた)あった。

 数多(あまた)あったと言わざるを得ぬそこかしこにある声々が、

 近く遠くまた近く僕を包囲していたからだ。

 声はとっくに死んでいる。

 いまのじゃない。

 ずっと以前のものもそこに残っている。

 声は消された命から剥離して浮遊する化石のようにここに留まっている。

 僕が拾うから聞こえるが、声はもう何も求めていない。

 怨嗟(えんさ)も未練も(いわん)や希望もそこにはない。
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