19.お買い物の気持ち

文字数 2,093文字

丁度このように行き詰っていた頃に、用務員の白羽さんから書きかけのような原稿、『日々是お買い物の気持ち』を貰ったのです。この原稿の中心的な部分は、以下の通りです。
「私は、押し売りをしようとして失敗してきた。確かに、相手がそれを買いたいかどうかなんて、分からないじゃない。そんなことより、相手の大切なものを買ってあげたらどうなんだろう? お買い物の気持ちを持ったらどうだろう?」

この原稿の意味がすぐに理解できた訳ではありませんが、確かに刺激されました。まずは、例えどんなに授業内容を工夫しても、教師の勝手に選んだ授業内容を生徒に押し売りしている限り進歩はないと言う事に察しが付いてきたのです。それでは、どうしたら良いと言えば、まだ良くは分かりませんでした。「お買い物の気持ち」と言われても、ピンとこなかったのです。それで、その原稿を書き上げる要領で自分の気持ちを整理しようと思ったわけです。私の生い立ちから、ずっと書いてきた訳です。さて、問題は、これからの事です。

確かに、押し売りでは自分の価値観を押し付けるだけの事です。たとえ売れたとしても、自己満足なだけで、真の意味で相手が利益を得ているとは言えません。多くの場合、逆効果になってしまいます。そして、世の中では、みな押し売りに躍起になっています。そして、押し売りの場合、実は、何を売ろうが、どうでもいいものです。真の目的は、売って、お金を儲ける事、名誉を得る事、勝負に勝つことなのです。これは、勝気性の人々の大きな問題点な訳です。当然、勝気の人は、負けた人の気持ちなんか分かる訳はないのです。そして、そんな傾向は、男性に顕著ではありますが、男性に限ったことではありません。

私でさえ、いつの間にか、その一味になっていたのです。劣等生だった私が、なんとか理科の教師になり、複雑系の事に気が付き、偉そうに、生徒たちに自分の考えや知識を押し売りしようとしてきたのです。では、ここで、方向転換をしたとして、何を買ったらいいのでしょうか? 普通、買い物に行くときは、何を買うか分かって、行きます。何を買うかが分からなくても、普通は、これこれの条件を満たすもの、と言った考えはあるはずです。どっちにしても、私は買い物のセンスなぞというものはないので、尚更、疑問が湧きました。

それに、生徒の大切なものと言われても、正直言って、よく分からないのでした。それで、少し情けないとは思いましたが、思い切って、用務員室へ出向いて、白羽さんに、聞いてみたのです。すると、白羽はこう聞き返してきました。
「あなたは、どうやって、理科、あるいは、自然に興味を持ったのですか? 誰かに勧められたのですか?」

私は今まで、こんな事を聞かれたことはありませんでした。そして、この時初めて、自分が自然界の複雑系に興味を持ったのは、全く自分の中から湧き出てきたことで、誰にも押し付けられた事ではないと気が付いたのです。そして、たとえ自分が興味を持っていても、他人もそうだとは言えないということにも気が付きました。それで、白羽さんの質問にはろくに返答もしないで、「白羽さん、ありがとう!」と言って飛び出しました。

家に帰って、教育心理の教科書を引っ張り出して、関係あると思われる辺りに目を通しました。「これだ! 自発心だ!」私は探していた言葉を見つけて大喜びでした。ところが、その教科書には、その言葉は載っているのですが、それが、実際何なのか、どうやって作り出すのか、と言ったことは一向に書いてありませんでした。「やっぱり、教科書というのは役に立たないなぁ」と思わざるを得ませんでした。兎に角、私が自分なりの難関を通り越えてここまで来れたのは、自発心のおかげです。誰に言われたわけでもありません。だから、生徒たちだって、同じはずです。

さて、自発心の反対の「他発心」と言う言葉があるかどうかは知りません。でも、人々の行動の多くが、自発心からではなく、多発心から発生していることは確かです。食べるために、嫌でも仕事をする。いい成績を取るために、そして、いい大学に行くために、嫌でも勉強する。そうです、生徒のほぼ全員が、他の目的のために嫌な勉強をする。他に目的があるから、押し付けられた事でもやり遂げる。そういう事ではないでしょうか? それに、世の親たちの中には、まるで、子供の成功を自分の成功のように考えている人たちがいます。そのような親を持った子供たちは、自分たちの意志よりも、親の意志に惑わされているはずです。親を喜ばすために勉強するなんて、最悪です。多発心に支配されているのは、可哀そうな事なのです。

では、生徒たちには、自発心があるのだろうか、と考えました。ない訳はありません。みんな、好きな事だったら、時間の経つのも忘れて没頭するにちがいありません。私の場合、たまたま、それしかなかったからか、それとも天性か、自然が好きになったのです。私の生徒たちは違う。東京っ子は違う。彼らが何を求めているかは、私には良く分からない。しょうがないから、生徒たちに聞くしかないかなぁ、と思いました。
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