46.里親の苦悩

文字数 2,526文字

フィンランドで十分休養して、たっぷりとお買い物の気持ちの為の資金作りが出来たとは思っていたのですが、里親としての現実は、想像以上の苦難の連続でした。平也の子供の頃も大変でしたが、今回は全く勝手が違っていました。未咲はいつも不信感が強く、他人を信頼しようとはしないのです。育ちが育ちだから仕方がないのかなぁとは思いつつ、「どうして?」と思うこともしばしばでした。そして、この年になって、おねしょをするのです。私の過去の経験と本から得た知識をもとにすれば、夢の中で、何らかの危険から逃れようとしているのではないかと想像出来ました。ただ、まだまだ、未咲とそんな話が出来る間柄ではありません。辛抱強く見守ってあげるのが限度でした。

未咲は、私の事を、とげのある言い方で「オバさん」と呼びます。初めはかなり気になったのですが、まぁ、「おばあさん」よりはいいかと思って、我慢するようにしました。まだ高校生の年なのですが、とても高校に行くと言う状況ではなく、家でゴロゴロしているか、ふらりと、どこかへ出かけてくると言う日々でした。一応、食事は毎食、家で取り、夜は元平也の部屋で、静かに過ごしているようでした。

また、こちらが大人しくしていれば、未咲も大人しいのですが、ちょっとしたことでも、気に入らないことがあると、急に暴れたりすることがあるのです。うちでは、代智も平也も暴れはしなかったので、私は、どう対応したら良いか困惑することが多々ありました。そして、私が一番気になったのは、未咲が心を開いてくれない事でした。私が何を言っても、しても、いつも無表情、無関心な感じなのです。「この人は、今までの過酷な経験から、感情が全く無くなってしまったのかしら?」とさえ思いました。それでも、私は根気よく未咲の事に気を付け、必要な手助けをするように努めました。未咲の場合、私自身が率先してお買い物の気持ちを持とうと思った人です。私が根気よく対応するしかないのです。

ただし、それが、何か月も、一年以上も続くと、一生変化はないのではないかという不安に襲われ、挫けそうになる時が増えてきました。ある時、代智に相談すると、こういう返事でした。
「お前が、もう無理だと言うなら、団体と相談したっていいんだよ。これは、お前が中心に決めたことだし、俺が手伝っているわけではないから、お前が判断しなければしょうがないだろう。お前がこんなに一生懸命やってできないんだったら、確かに無理なんだろう」
「......」
「だけど、お前、俺の事は諦めなかったよな」
「えっ?」
「ほらっ、俺が文句ばっかり言ったり、黙りっきりになっていた頃の事さ。お前が嫌がっていたのは分かっていたんだが、どうしても、そうなってしまったんだ。まぁ、文句ばかり言ってた時は、ほんとに自分が嫌で、それで、今度は、黙ってしまったんだ。だけど、それは、それで、やっぱり、辛かった。それを、いつからか、お前が助けてくれるたじゃないか。そうじゃなかったら、俺たち、危なかったよな。ほんとに」
「それは~」
やっぱり、代智もあの頃、私たちの間が危ないと思っていたんだ。平也に指摘されて、私がお買い物の気持ちを思い出さなかったら、私たち、どうなっていたんだろう? 私たちの結婚を救ったのも、お買い物の気持ちだ。未咲に対しても、そうだ、お買い物の気持ちを持ち続けるしかないのだと確信しました。ただ、それを実践するには、何か新しい方法を考えなくてはならないかもしれないとも思い始めていました。

未咲には、一つ、平也と共通する点がありました。食べるのが非常に遅いのです。未咲の場合、例えば、パンにクリームチーズを塗るのに、異常に丁寧に、何分でもかけて塗るのです。また、お箸を、ああでもない、こうでもないと、いつまでも並べ替えたりするのです。ある日、早く食事の後片付けをしたくて、私は、ついつい、平也の時のように、「もー! 早く食べて!」と言ってしまったのです。すると、未咲が急に物凄い形相で、私に飛び掛かって来たのです。私は、他人にそんな恐ろしい表情をされた事がなかったので、異常な恐怖心に駆られ、「危ない!」と思った瞬間に、もう完全に治ったと思っていたお漏らしをしてしまったのです。

この年になって、それも、未咲の前で、こんな事になってしまい、とても里親の資格がないと観念しました。私は、あっけに取られていた未咲を押しのけるようにして、泣きながら風呂場へ走って行きました。そこで濡れた服を洗濯機に放り込んで、シャワーを浴びながら泣き続けました。今まで、気負って、努力して来たのに、こんな事になってしまって! 長いこと泣いてから、「やっぱり、私には無理だった。もう里親は諦めよう」と決心しました。

その後シャワーから出てくると、私が回したわけではないのに、洗濯機が回っているのです。台所に戻ると、床が拭かれていました。食器も片付けてありました。そして、テーブルの上にはお茶の入った茶碗が二つ置いてあったのです。そのテーブルに、未咲がうつぶせていたのですが、そのままの状態で、顔を上げずに、ボソッと言いました。
「おばさん、ごめんなさい」
私は、この時初めて、とげのない未咲の言葉を聞きました。そして、未咲が涙の流れた後の顔を上げて言ったのです。
「今まで、気が付かなかった。あたしはずっと、人に傷つけられてきたと思ってきた。それが、たった今、分かった。いつの間にか、あたしが人の事を傷つけていた。しんぼう強いおばさんがおしっこをもらすほどの仕打ちを、このあたしがしてしまったと、初めて気が付いた」

私は、唖然としました。明らかに、未咲の人間らしさが表れていたからです。
「未咲ちゃん、もういいのよ。私は子供の頃から膀胱がゆるいんだから。それから、お茶、ありがとう」
「あたしも子供の頃の事を思い出したの。おばさんのおもらしを見て、あたしも自分の事を......。そして、今まで、誰にも言ったことはないのだけど、誰かに自分の事を話さないといけない。いや、話したい、そう感じた。そうでもしないと、あたし、もう、人間のくずのままで終わってしまいそう......。あたし......」
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