54.迷い家猫

文字数 1,781文字

それからまだあまり経たない頃、未咲がいつもよりかなり遅れて仕事から帰ってきました。そして、部屋に入るや否や、興奮して話し出しました。
「おかあさん、向かいの家の猫が居なくなっちゃってたいへんだったんだよ」
「あらっ、どうしたの?」
「丁度あたしが通りかかった時、家族みんなで探していたの。子供が猫を抱っこして外へ連れて行った時にオートバイが通って、怖がって飛び降りちゃったんだって。それで、あたしも、手伝ったんだけど~。みんなは家から離れて、ずいぶん遠くまで行ってたの。でも、あたしは、いつも家の中に居る猫だったら、わざわざ知らないような遠くには行かないんじゃないかと思った。それで、家の周りをよ~く見てみたわけ。そうしたら、その家の裏の膝くらいの高さのデッキの下の奥の方に隠れているのが見えたの。あたしは、すぐに、家族に教えたんだ」
「未咲ちゃん、お手柄じゃない」

「うん。でも、まだ先があるんだよ。そのデッキ、すっごく低いから、人が入れるようなもんじゃないの。そして、一方は家につながっているんだけど、他は囲まれてないんで、猫にしてみれば、どっちの方向にも逃げられる感じだった。家族は、餌やおもちゃで釣ろうとしていたんだけど、あたしは、それじゃぁダメだと思った」
「あらっ、どうして?」
「おかあさん、よく考えてよ。その猫は、生きるか死ぬかの大変な時なんだよ! おもちゃで遊んだり、おいしいもの食べたり、したいと思う?」
「確かに、そうね」

「でしょ? あたしは、今まで、沢山ひどい経験をしてきたから、直感的に分かるの。その猫は、デッキの下で怖がっているわけで、もっと安全だと思えるような場所がない限り、動きたくないはずじゃない? 安全だと分かるところがあれば、自分からそこに行くんじゃない? それで、どうしたらいいかと考えたの。その時、セラピー犬のくろ太郎の事を思い出した。くろ太郎には、犬小屋がある。その猫には猫小屋はないんだけど、車とかに乗せる時に使う、移動用のケースがあると聞いたの。それで、それを持ってきてもらった。ひょっとしたら、家の外の慣れないところに居るより、慣れているケースの方がいいかと思って」
「あら~、いいとこに気が付いたわね」
そう言えば、教育心理か、青少年心理かで、それに関連したような事を学んだ気はします。ただ、私は未咲の様な危機に遭遇したこともなく、未咲の言葉を聞くまでは、そんなことは思いつきませんでした。

未咲の興奮はまだ納まりません。
「ケースはいい考えだと思ったんだけど、そううまくは行かなかった。猫は全然動いてくれなかったんだ。あたしは、もう、ダメかなぁと思った。でもね、今度は、家族の人が、アイデアを出したの。プラスチックの網があるから、それでデッキの周りに簡単な柵を作れるかもしれないって。それで、猫がデッキの下から出れないようにしたの。次に、その家族の子供が腹ばいになって、デッキの下に潜り込んで、猫を捕まえようとした。でも、猫は、良く慣れているはずのその子供からも逃げようとしたの。やっぱり、そんなに大変な時は、相手が誰でも、捕まえようとすると、何か悪いことが起こるのではと警戒してしまうんだね。その内に、猫は子供の頭の上を乗り越えて、ほんの少しあった柵の隙間から外に出てしまった。みんな、大慌てだった。それでも、あたしの予想通り、その猫、家の周りから離れようとはしないの。それで、わたし、家の周りを猫と一緒にゆっくりと動きながら、少しずつ、猫をケースの方に誘導してやったら、最後には、自分からケースの中に入ったんだよ!」
「未咲ちゃん! 凄いわね!!」

その時の未咲は、富士山に登った時以上に嬉しそうでした。でも、ほんとは、私の方がもっと嬉しかったかも知れません。もう、あの、無関心で無表情な未咲ではないと思ったからです。それに、未咲には言いませんでしたが、もう一つ気が付いたことがあるのです。この猫に対する未咲の行動は、まさに、お買い物の気持ちに基づいていると思ったのです。未咲は、相手の(この場合は猫ですが)大切なもの(安全でしょうか)を買う事が出来たのです。いつの間にか、そのための資金、余裕が出来ていたのです。それで、猫は、自分からケースに入ったのです。おかげで、誰も無理やり捕まえたりしなくて済んだのです。私は、感無量でした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み