32.武蔵野台地の南端

文字数 1,497文字

私の心は、揺さぶられました。「符吹、何で今頃! もう、遅いよ!! 私、結婚してるんだから」と思いました。でも、私が、私のままで、そこまで好きになってくれた人が居たんだと思うと、ごく一瞬の喜びを感じ、そして、次の瞬間に、それは完全な絶望感に変わっていました。それにしても、この私を天然記念物扱いにするとは! その夜、代智が求めて来た時、私は、具合が悪いと言って、拒みました。生理の時を除いては、初めての事でした。それから、符吹が伝染病にかかったかもしれないという事が気になってきました。誰かが、助けてあげられないかしら? いや、私がタイまで出向いて、助け出さなければいけないかもしれないとさえ思いました。そう言えば、タイと言えば、香港の少し先なだけです。私たちの新婚旅行を楽しんでいる間も、符吹は悩み苦しんでいたのです。いずれにしても、まだ符吹の心の病気は治っていない。私に会ったら、また独占欲に駆られてしまうという事も想像できました。

翌日は仕事を休み、布団の中で悶々としていました。眠ることも出来ないし、少し気になって、手紙に入っていた付箋に目を通しました。どうやら、英語のようです。ただ、その筆記体を読むのはかなりの困難でした。辞書を引きながら、解読しなくてはなりませんでしたが、字体が読みずらくて、辞書を引くのにも苦労しました。そして、やっと、「deceased」と書かれている事が分かり、訳語を見て、愕然としました。「死んだ」、そう言う意味だ。そして、寺院の人が、まだ投函されていないこの手紙に気づき、出したとも書いてありました。
「あー!!! もうどっちにしても、終わりだったのだ。符吹はもうこの世には居ないのだ」

私のリトル・マーメイド東京版では、王子様が南国の熱で溶け、水蒸気となって消えてしまったのです。私の空想劇は、これで完結しました。早く、現実に戻らなければと思いました。それで、その夜、私は代智に言ったのです。
「あなた、私、もう大丈夫だから、抱いて」
何はともあれ、これからは、代智と二人で生きて行かなくてはならないのです。

その後、私たちは自分たちのアパートを借りる計画を始めました。埼玉県南部の代智の仕事と多摩ニュータウンの私の仕事に通える所で、広くて、安い所を探していました。さて、こう言っては失礼ですが、私は、それまで、代智の才能をあまり認めてはいなかったのです。もっと失礼な事を言えば、まぁ、これはお互いさまでしたが、肉欲の対象と見做していたと言うのが正解かも知れません。ところが、アパート探しに関して、代智は、予想外の能力を発揮してくれました。数ある選択肢の中から、武蔵野台地の南端に狙いを定め、二つの駅に、それぞれ徒歩15分程で行ける所を探してくれました。代智は武蔵野線で埼玉へ、私は南武線経由でも、京王線経由でも、多摩センターに行けます。近くには公園、緑地も多く、多摩川にも簡単に歩いて行ける、いい所です。ここでも、自然の絵がたくさん描けるなと思いました。そして、そのアパートは、新築、南向きのベランダ付きで、広々としたものだったのです。

私は、そのアパートをかなり気に入り、そこを探してくれた代智の株も少し上がりました。それに、代智は私の仕事には口を出さないし、嫉妬深くないので、教師の仕事は以前の様に一生懸命することが出来ました。お買い物の気持ちも、それなりに持続することが出来たと思います。私の失恋事件の様子を知っている生徒は次々と卒業してしまったので、段々と、気にせずに済むようになりました。そうこうしているうちに、どうやら、私の気持ちも落ち着いてきたのです。
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