28.楽しみにしていた一泊旅行

文字数 2,013文字

その後は、符吹も元のように振る舞ってくれて、私はホッとしていました。それからは、符吹を刺激しないように、黒迷君との会合をすっぽかしてしまうこともありましたが、それでも、黒迷君は、毎週木曜日に理科室を訪れているようでした。

私たちは、新宿のホテルで一夜を過ごしてから、一緒に寝たことはなく、痺れを切らしていました。それで、符吹が名案を思い付きました。二人で、私の故郷を訪れようと言うのです。当然、泊りがけです。久々に符吹と夜を共に出来ると思うと、私はワクワクしました。下田まで電車で行き、そこでレンタカーをしました。美しい真っ青な海と入り組んだ海岸線を眺め、中木の父親を訪ね、中木の周辺を散策しました。

まだ、私の育った頃と大して変わらない中木の自然を見て、符吹は感激しているようでした。
「入絵、やっと分かったよ。君が、都会っ子と違うのは、こんな素晴らしい所で育ったからだ。都会のしがらみとか表面的な付き合いとはかけ離れている訳だ」
その後、南伊豆町の街中を見て回りました。
「ここ、私の小学校......、中学校......、そして、高校」
私が、そう言って指さしたところ、符吹は小さな高校の建物に気を取られていました。それで、高校の駐車場から出てきた車に気が付くのが遅れ、慌ててブレーキを踏みました。私は、二台が衝突したのではないかと思いました。そしてその時、相手の車から出てきた人を見て、びっくりしてしまいました。私の高校時代の理科の先生だったのです。符吹も車から出て、先生に謝っています。どうしたら良いか分からなかったのですが、先生が目の前にいるのに出て行かないのは不自然と思い、私も外に出ました。まず、私たちの車を見て、衝突寸前で止まった事を確認しました。そして、私が顔を上げた時、先生は驚いて、叫びました。
「青澄!」
符吹は急に私の方に振り替えると、
「知り合い?」
と聞きました。
「えぇ。私の高校の時の理科の先生。先生、こちらは、私の彼氏の緑念符吹です」
それを聞いて、先生は明らかに驚きが隠せないようでした。私は、平静を保ったつもりでした。ただ、俯き加減にしていたので、先生がどういう様子なのかも、はっきりわかりませんでした。符吹が、
「そうですか。ほんとに、危ないことをして申し訳ありません。私はこの純朴な入絵さんが育った土地を見てみたくて、一緒にここを訪れたのです」
「ほんとに、事故にならなくてよかった。いや~、青澄君が数年前に帰省した時に、東京で理科の教師になったと聞いて、たいへんな努力家だと思いましたよ」
当然、先生は、ごく一般的な事だけ話しました。

先生と別れてからは、符吹は何かに気を取られているようで、無口になってしまいました。下田のホテルに戻って、夕食の時も、いつもの符吹ではありませんでした。私は、その理由に察しがついていました。そして、私の過去について、符吹に嘘をついたことが悔やまれて仕方がありませんでした。

夜になって、ベッドに入った時、符吹がやっと口を利きました。
「あの先生が入絵の事を見ている時、視線が普通じゃなかったぞ。特別な関係だったのか?」
「そんな! なんでもありません!」
もう、嘘をついてしまったので、今更それを取り消すことは出来ませんでした。ただ、私の言葉に、私の苦悶が現れていたのは間違いありません。符吹はそれに気が付いていたのだと思います。私はこの時ほど後悔したことはありませんでした。最初に性体験の事を聞かれた時に、正直に言っておくべきだったのです。そうすれば、このような惨事に陥らなくて済んだはずなのに。やはり、嘘はつくべきでなはなかったのです!

符吹はその後も黙ったままでした。そして、符吹は私の体に触れようとはしません。それでも、私は、心の中で、「ねー! 抱いて!!!」と必死の懇願をしていました。私は悲しくて、悲しくて、やり切れませんでした。なるべく声を上げないようにしましたが、涙だけはぼろぼろと出て止まりませんでした。私は、こんなに符吹の事を思っているのに! 符吹だって、私の事を好きなはずなのに! 独占欲と嫉妬心が強すぎる。私たち、どうなってしまうのだろう? 下田からの帰りはあまりに惨めで、もう思い出したくありません。

それからは、学校の帰り、私が駅で待っていても、符吹が来てくれないことが多くなりました。一緒に電車に乗っても、調布ですんなりと別れてしまったり、休日のデートにも誘ってくれなくなりました。失恋がスローモーションで展開していくようで、とても耐えられませんでした。私は、段々お化粧をする意欲もなくなり、衣装や髪形にもあまり気を使わなくなってしまいました。

そして、ある冬の日、東京では珍しい、吹雪のような雪の中、うっすらと積もった白い雪をゆっくりと踏みながら、一人寂しく帰宅する時、気が付いたのです。私には、こんな惨めな心境を打ち明けて、相談できる人が居なかったのです。
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