29.学年末の悲しみ

文字数 2,297文字

そして、めっきり符吹と会えなくなってからも、私は木曜日の黒迷君との会合を続けていました。
「先生、最近、悲しそうだね。緑念先生とうまくいっていないの?」
「そうなの。分かるわよね」
「うん。みんな知ってるよ。だって、ついこの前までの二人の様子と全く違うもん」
「そうよね」
「ねぇ、先生。これから、また毎週木曜日に会ってくれるよね?」
「えぇ。ごめんなさい。私、彼に夢中で、何回も木曜日すっぽかしてしまって」
「いいんだよ。俺は、毎週来ていたけど、気にならないよ。だって、先生、それまで、毎週、俺と話をしてくれたじゃない。それが、どんなに助けになったか分からないよ」
「よかった。そう言ってくれて。黒迷君、ありがとう」
「うん。俺......、先生を抱いてあげたいよ」
私には、黒迷君の言っている意味が正確には分かりませんでした。慰めるために抱擁したいと言っているのか、それとも......。

次の週の校内菜園の作業は、金識さんと二人だけでした。
「先生、今日、授業中に泣きそうな顔になってたよ」
それを聞いたら、ほんとに涙がボロボロとこぼれてきました。
「先生、そんな悲しい涙じゃ、作物に良くないよ。緑念先生の事でしょ?」

その時、誰にも言えなかった辛さから、金識さんに、ついついほんとの事を漏らしてしまったのです。言ってしまってから、生徒にこんな話をしてしまって、と後悔しました。ただ、ひょっとしたら、この優秀で、物事が良く分かっている金識さんだったら、何か良い考えを授けてくれるのではないか、と言う情けない期待さえしていたかもしれないのです。
「えっ?! その~、先生が、高校の時の理科の先生を、先生の方から、誘惑した訳? 結構、やるわね! その意気で、新しい彼氏作らなくちゃ! それに、一回だけの、それに、過去の出来事にこだわるなんて。緑念先生は、頭がおかしいに決まっている。病気だよ、それ。大体、きざだし、早くあんな奴の事、忘れてよ! ところで、どうやって理科の先生を誘惑したの? 誰にも言わないから教えて!」
この人は、慰めてくれているつもりなのか、それとも、単に私の失恋話を楽しんでいるだけなのか、私には分かりませんでした。ただ、もうほとんどの事を話してしまったので、仕方なく、理科の先生との車の中での事まで打ち明けてしまったのです。
「わぁ~、凄い! 先生、見かけによらないわね!」
どうやら、私の色話で興奮しているだけの様でした。

少しほとぼりが冷めたのか、金識さんは、一向に悲しみが抜けない私の顔を見て、「あ~ぁ」とため息をつきました。そして、暫く考え込んでいるようでしたが、ポツリと言いました。
「そうだ。先生は、何か趣味とか、好きな事はないの?」
「......」
「だって~、先生、このままじゃ、腐っちゃうよ」
「そうよねぇ。私、え~と、絵を描くこととか......」
「じゃぁ、兎に角、絵でも描いて、心を落ち着けるしかないみたいじゃない?」
これは、役に立ちました。金識さんに言われて、暫くお預けになっていた、多摩ニュータウンの周りの自然を描くプロジェクトを再開しました。

そして、その学年の卒業式の二週間ほど前から、符吹が学校に来なくなってしまいました。私は、気が気ではなかったのですが、もう、符吹は私に会いたくないのだと確信しました。泣きながら家に帰る途中、周りに真っ白な靄がかかっているように見えたのですが、ひょっとすると、それは、私の涙のせいだったのかもしれません。

卒業式の日は、折角の行事なので、なるべく平静を装っていました。式の後、黒迷君が来て言いました。
「先生、元気出してよ。きっといい人が見つかるよ。それから~」
「なに?」
「俺、卒業後は、親爺の修理工場で働くことにしたんだ。暴力沙汰の親爺だけど、修理工としての腕は一人前なんだ。だから、俺も修理工になろうと思う。そして......、先生、渡したいものがあるんだ。こっち来て」
そう言うと、黒迷君は先頭を切って、卒業式の後の人ごみから私を連れ出し、理科室まで行きました。そこで、黒迷君は、私に小さな物をくれました。それは、おり紙で作ったと思われる随分と小さな箱で、少し苦労をしながら開けると、中には、ものすごく小さな折り紙のツルが二羽入っていました。一羽は青で、もう一羽は黒でした。私は、思わず言いました。
「わぁー、小さくて、可愛い! 黒迷君、とっても器用ね。いい修理工になるわね。このツル、大事に取っておくわ」
黒迷君は、嬉しそうにしながら、まだもじもじしていましたが、口を開きました。
「よかった。それで~、先生、びっくりしないでね。ちょっと、大事な事を言うから。俺ねぇ、俺が一人前になった頃にね~、もし先生がまだ結婚していなかったら~、先生をお嫁さんにしたいんだ!」
これには流石にびっくりしました。でも、黒迷君は真剣に見えました。そして、二羽のツルの意味も分かりました。私は正直に嬉しく思いました。そして、黒迷君だったら、符吹のように、嫉妬心に打ち負かされはしないかもしれないと思いました。
「黒迷君、私の事を思ってくれて嬉しいわ。それに、ここまで連れて来てくれてありがとう。万が一の事を心配したんでしょう? 思いやりがあるわね。あなたは、きっといい旦那さんになるわ。でも、将来は将来よね。いずれにしても、頑張ってね。私、いつまでも応援しているから」
私は少し無理をして偉そうなことを言ったのですが、実は、私の方が黒迷君に縋り付きたい様な心境だったかも知れません。

黒迷君の言葉で符吹との失恋の心痛が治まった訳ではありませんでしたが、少し紛れたことは確かでした。
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