36.余裕は作るもの、のはず

文字数 2,095文字

その頃は、確かに、全く余裕がなかったのです。どう考えても、そのままでは、余裕を作るための余裕もありません。世の中には、立派に仕事と育児を両立している母親もいるはずですが、私には、とてもそう言うわけにはいかないと思いました。まず、自分の子供、平也の事を見捨てることは出来ません。それでは、仕事を辞める? 私には、二つ気にかかることがありました。一つは、お金の事。収入が減って、やっていけるかしら? もう一つは、私の使命とまで思っていた理科の教師の仕事を辞めてしまっていいのか、と言う事です。

お金の件については、代智が家計簿をつける役なので、聞かないとはっきりしたことは分かりません。それよりも、使命感の方が気になりました。しかし、結局、私の、教師として最もうまくいっていたことは、お買い物の気持ちを持って生徒たちに接すると言う事で、自然の冥利や複雑系の事について生徒たちを刺激すると言う点では、全く希望通りの事は出来ていませんでした。

それから、一つの可能性として、今、仕事を辞めても、また、いずれ教師に戻れるかもしれないと言う思いもめぐりました。しかし、就職の困難さを考えると、それは、全く現実的とは思えませんでした。

兎に角、その週末に、代智に仕事を辞める相談をしてみました。代智も私が忙しすぎる事は良く分かっていました。そして、お金の件については、「心配するな」と言ってくれました。「確かに収入は減るが、支出も減る。贅沢は出来ないが、何とかなる」と言うのです。普段は、あまり当てにならない夫ですが、はっきりとそう言ってくれたので、私もその言葉に甘え、その年の学年末で仕事を辞める決心をしました。確かに、使命とまで思っていた仕事を辞めるのは残念で仕方がありませんでしたが、この時までには観念しました。

仕事を辞めてすぐに、平也も保育園を辞めさせました。平也は、その後、幼稚園に行く年になったのですが、今度は、私がずっと一緒に過ごすようにしたのです。ところが、平日の昼間、平也と二人で過ごすようになると、新しいストレスを感じ始めました。

ずっとアパートの中にいるわけにはいかないので、出来るだけ外に出掛けるようにしました。よく、市立図書館に平也の為の絵本を借りに行くのですが、どうしても、私の興味のある、自然や科学の本がある所にも立ち寄ってしまいます。中には、とても面白そうな本があるのです。例えば、『ハキリアリの生態』とか、『複雑系としての親子関係』と言う本があったのです。すかさずアリの本を手に取ってみました。なんと、このアリたちは、葉っぱを切り取って巣に持ち帰り、その上で菌類を栽培して食べるのだそうです! 私の、アリに対する、冬眠中の興味が蘇り、興奮しました。その瞬間に、平也が泣き出し、慌てて図書館の外に出ざるを得なかったのです。いつも、そんな調子だったので、欲求不満がつのりました。

また、歩いて行けるところに、幾つも緑地や公園があるので、天気が悪くない限り出かけるのです。公園には他の母子も来ている訳ですが、私たち母子は、どうも、他人とうまく付き合う事が出来ませんでした。まず、平日の昼間に公園に来るような子供は、みな幼稚園前です。平也はそれより少し年上なためか、何かと威張った態度を取ることが多かったのです。他の子供のおもちゃとか、持ち物を取り上げてしまったり、泣かせてしまったしました。私が慌てて仲介に入ると言う事も多くありました。

当然、他の母親たちは、平也、そして、それよりも私の事を悪く思ってきたようです。私を無視したり、私たちが来ると、すぐに帰ってしまったりと言う事さえありました。私自身、自分の母親に連れられて他の子供と一緒に遊んだ経験もなく、どうして良いのか分からず仕舞いでした。

それだけではなく、私が平也を怒るために、平也も私の事を良く思ってくれませんでした。今まで、保育園で、どのように扱われていたのか、実際の所は分かりませんが、どうやら、急にうるさい母親とだけ一緒に居るようになって、嫌がっている節さえありました。

また、買い物、炊事、洗濯、掃除と家事をしなければならないのですが、それにも影響してきました。平也が、自分の遊びが出来ないとぐずったり、怒ったりと手に負えないので、他の事までうまくできないのです。結局、私が仕事を辞めても、状況は良くなるどころか、悪くなっているようでした。

この時までにもう分かっていたことは、平也に対して、お買い物の気持ちを持たなければならない。ところが、その頃の私には、依然としてお買い物をするだけの資金がなかったし、資金作りの方法が分からなかったのです。多分、他の人は、もっと要領良く資金作りが出来るのだろうと思いました。私の場合は、自分勝手な性格からか、なかなかそうはいかなかったのです。そして、やっと分かったことは、学校の生徒たちを相手にするよりも、自分自身の子供のためのお買い物にはもっとたくさんの資金が必要だと言う事でした。それは、当然の事かも知れません。学校で何時間か会うだけでなく、一日中相手をしなければならないからです。
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