44.サボンリンナの母子

文字数 1,863文字

サボンリンナは、とても美しい所なので、自然と絵を描く気分になりました。森、湖、小さな動物等、今までとは違った物が描けて心が和みました。ほんとは、この文章に挿絵が入れられたら良かったのですが......。ある日、公園で絵を描いていると、乳児を連れた、地元の人と思われる女性が声を掛けてきました。「ヘイ!」これは、私が覚えた数少ないフィンランド語の挨拶です。これは極めて簡単なので、私もすかさず、「ヘイ!」と言いました。それ以上のフィンランド語での会話は無理な訳ですが、様子を察すると、今度は英語で話してきました。私は英語もダメなのですが、カバンの中に入れておいた辞書を使って、頑張りました。

どうやら、この、メリさんと言う女性、連れている乳児の事で話がしたいようです。着ているものから、その乳児は女の子だと分かりました。乳児の名前はエーバと名付けたそうで、命の事を意味するようです。そして、よく見ると、このエーバ、黒い髪の毛が沢山あって、どこか東洋人的な感じでした。

その後のメリさんの話では、どうやら、サボンリンナの町のシェルターに辿り着いた東洋人の若い母親が、出産後に急死してしまったらしいのです。それで、何かの縁でメリさんが里親をしているという事でした。私は、何で東洋人がこんなところのシェルターで子供を産むような事になったのか気になりました。そして、子供を残して亡くなってしまうなんて、なんと不幸な話かと思いました。

ところで、メリさんが私に声を掛けてきたのには訳がありました。その亡くなってしまった母親がエーバと共に残した書置きがあるのですが、それが読めないでいたというのです。驚いたことに、それには「この子をよろしく。美世里」と書いてあったのです。私は、「どうして、こんなところに日本人が?」と思わざるを得ませんでした。それに、日本語しか書けないような人が、こんなところで、出産後亡くなってしまったと言うのはあまりに不思議で、悲劇的な話です。私は、それが、日本語であることを伝え、内容をへなちょこな英語に直してあげました。

メリさんは、大変感謝して、「キートス!」と言いました。この、「キートス」は、ありがとうの意味で、私が覚えた二番目で最後のフィンランド語でした。メリさんは、母親の名前が分かって良かったと言いました。どうやら、その母親はフィンランド語どころか、英語もろくに話せずに、シェルターでは会話らしい会話は出来なかったらしいのです。

私も、メリさんに「キートス!」と言いました。それは、見ず知らずの日本人が残した乳児、エーバを育てている事に対する、ごく自然な感謝の気持ちから出た言葉でした。メリさんは私の気持ちが分かったようです。何度も頷いて、「大事に育てる」とはっきり言いました。

それから、三週間ほどの間、私は毎日のように公園でメリさんとエーバに会いました。メリさんは自分の子供ではないのに、とてもそうは思わせないようにエーバの事を可愛がっていました。私は安心しました。エーバは生みの母親の事は覚えてはいないだろうけど、メリさんにしっかりなつくに違いないと思いました。

その後、代智のサボンリンナでの仕事が終わり、私たちはこの美しい町に別れを告げる時が来ました。出かける日には、メリさんが車で飛行場まで送ってくれました。私たちは、飛行機でヘルシンキまで戻り、二日間、ヘルシンキの観光をしました。帰国の日、日本行きの飛行機に乗り込む前に少し時間があったので、空港のお土産屋さんに寄ると、結構面白いものがありました。その一つは、トビウオのような魚が飛行機になって空を飛んでいる絵が描いてある絵ハガキです。これは、フィンランドの感じがとてもよく出ていると思い、記念にと、何枚も買ってしまいました。私は、今まで写生ばかりしてきたのですが、なるほど、こういった面白い絵を描いてもいいかなと思いました。そして、ケチな私たち夫婦は、他に何も買い物をしていないことに気が付きました。私がその事を言うと、代智は慌てて、会社の人々にお土産を買っていました。

この旅の間の一か月間、私はじっくりと休養しました。町を歩き、美味しい物を食べ、沢山の絵を描きました。そして、メリさんの、エーバの里親としての生活を垣間見まる事が出来ました。それは、私にとって、とても新鮮な発見だったのです。同時に、この旅行中に養った鋭気を使って、何か新しいことが出来るのではないかと思いました。別の言い方をすれば、次のお買い物をする貯金が出来たように思ったのです。
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