10.憧れの東京

文字数 1,880文字

私は、高校卒業と同時に、婆ちゃんのいとこ、灰床夫妻の所へ転がり込みました。そこは寝室が二つだけの小さな、古い一軒家でした。子供はもう独立してしまって、寂しかったので、開いている部屋に下宿させてくれることになったのです。そして、食事も出してくれるということでした。ただ一つ、私がしなければならない事は、家の内外の片付け、手入れ、そして補修などの手伝いです。旦那さんは腰痛、奥さんは老眼でその手のことが難しくなってきていたのです。

さて、初めの数日間は、東京の繁華街をうろついてみたりしました。東京の人は中木の海で興奮するかも知れないけれど、その時の私は、断然、東京の街に興奮しました。さて、どこに私の王子様のジョージがいるかなぁ、ときょろきょろしたりしてみました。ただ、憧れていてはいたものの、実際に一人でうろうろしてみてもそんなに楽しいものではありませんでした。そして、こんなに人口の多い東京で、灰床夫妻以外、誰も知らない事態に愕然とせざるを得ませんでした。すぐに一人ぼっちの寂しさを感じ始めたのです。それで、その後はすぐに、東京に出てきた目的の、大学へ行く計画を立て始めました。初めの一年は浪人・準備期間です。

仕事としては、それほど考えもせずに、新聞配達をしようと思いました。その頃は、朝刊と夕刊とがあり、毎朝早くと夕刻に自転車で配達をしなくてはならず、かなり大変な仕事だということは分かっていたつもりです。でも、高校時代に一応陸上部だったので、体力的には大丈夫だろうと思っていました。ただ、一度も自転車に乗ったことがなかったので、それが、気になっていました。

さて、仕事を始める前に、配達所の自転車を借りて練習しようとしていた矢先です。配達所の長男、小学校六年生の優飛君がそばで様子を伺っていたのですが、私に言葉をかけてきました。
「お姉さん、自転車の練習をするんだったら、僕が教えてあげようか?」
私は、とっさに答えました。
「優飛君、お願い! 教えて!!」

それで、優飛君は、親が子供に教えるような按配で、私に自転車乗りを教えてくれたのです。幸い、先生が良かったのか、比較的すぐに乗れるようになりました。続いて、東京の土地感覚の全くない私に配達区域の目印を教えてくれることになりました。覚えたばかりの自転車乗りで、優飛君の後を必死に着いて周り、主要な道路、神田川と玉川上水、駅、高層住宅、スーパー等、色々と教わりました。ただ、私の故郷と違って、あまりの大都会なので、とてもすべて覚えきることは出来ませんでした。

陰りつつある夕陽の下で、一生懸命に目印の復習をしていたところ、路面にあった砂利に気を付けることを怠ってしまいました。優飛君の後を追って、街角を曲がろうとしたところ、タイヤがすべって、転んでしまいました。両手と左の膝を路面に打ち付け、擦り傷切り傷が沢山出来てしまいました。また、悪いことに、路面の砂利が黒いゴマ粒の様に肌に食い込んで、凄く痛かったのです。

気が付いた優飛君は、慌てて戻ってきて、「待ってて」と言うと、近くの公園の水飲み場でハンカチを濡らしてきて、丁寧に私の手足を拭いてくれました。そして、「あー、痛そう!」と、とても辛そうな顔をしたのです。それを見た瞬間、もしかして、この小学生が私の王子様なのではないかと思いました。思わず、「優飛君、どうもありがとう。優しいのね」と言うと、彼は照れていました。「お姉さん、一生懸命仕事の準備しているのに、怪我しちゃって、可哀そうだったから」

その後、私が優飛君にお礼がしたいと言うと、
「じゃー、今度の日曜日にサッカーの試合があるから、応援しに来て」
と言われました。それで、その日は、喜んで出かけて行きました。試合の後は、二人でチョコレートのアイスクリームを食べ、私は、まるでデート気分でした。優飛君もまんざらではないようで、こう言いました。
「僕には二歳下の生意気な弟がいるんだ。嫌で嫌で、仕方がない。それで、いつも、少し年の離れた妹か、お姉さんが居たらなぁって思っていたんだ。だから、こうやって、お姉さんがサッカーの試合を見に来てくれて、すごい嬉しいよ」
「よかったー! 私はね、東京に出てきてまだ誰もお友達がいないでしょ。だから、優飛君が自転車や仕事の事教えてくれたり、試合に誘ってくれてほんとに嬉しかったのー。来れるときは、いつも応援に来ていい?」
「やったー! 僕、ほんとにお姉さんが出来たみたいだ」

優飛君は私のことをお姉さんのつもりになっていたかもしれませんが、私としては、小さな彼氏が出来た気分でした。
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