55.懐かしの故郷

文字数 1,949文字

丁度その頃、代智と私は、未咲の就職を祝って、未咲を私の故郷の中木へ連れて行くことを計画していました。ところで、中木周辺はすでに観光地化しており、中木にも何軒か民宿が出来ていました。ただし、混雑の激しい夏の間の週末に予約することは出来ませんでした。それで、10月の初め、ヒリゾ浜への船も終わり、民宿も閉じ始める頃に、最近始めたばかりの『海の想い出』と言う民宿を予約しました。

また車を借りて、5時間程かけて、三人で、懐かしい私の故郷を訪れたのです。私たちは特に何をするでもなく、伊豆半島最南端の岬、石廊崎でお弁当を食べ、周辺をドライブし、後は、中木の集落の周りをうろついて過ごしました。中木はすっかり観光地化してしまいましたが、それでも、まだまだ、私の思い出の場所がありました。真っ青な空、秋の気配が漂い始めた裏山、そして、今でも十分に澄んでいる海。その後、民宿のオーナーの作った家庭的な夕食を食べ、小さなお風呂に入って、部屋でくつろぎました。他の人が見たら、私たち三人は実の親子だと思ったに違いありません。

皆、床に入った後、私は、すぐには眠れず、そっと民宿から外に出てみました。目の前の駐車場からは、すぐそこに中木の入江が望めます。満月の光が静かな水面に反射してきれいな夜でした。足音に気が付いて振り返ると、民宿のオーナーが出てきました。そして、入江の方を見たまま、静かに言いました。
「良い夜ですね」
「えぇ。東京ではとても見れない景色で......」
「そうですね。僕も東京出身なのですが、小学生の時に初めてここに来たんですよ。港の中でさえ、透き通った海で、ほんとに感激しました。そして、そうそう、同じくらいの年の、ここの集落の女の子がトガイ浜や裏山を案内してくれたんですよ。その時の事は、今でも鮮明に覚えています。僕は、その後もここに来たかったんですが、両親がキャンピングカーで日本中を回るのが趣味で、戻っては来れませんでした。でも、僕は、他のどこよりも、ここが一番好きだったんですよ。それに、その女の子の事も気になっていました。そうですねぇ、田舎の純情そうな子でした。なんだか、海の中で育っている人魚姫のような感じで。大学時代に、ディズニーの『リトル・マーメイド』を見たんですが、主人公のアリエルとダブってしまいましたよ。その後、自分の家族が出来てから、再びここを訪れたんです。そうしたら、ここはすっかり変わってしまっていました。何気なしに、集落の人にその女の子の事を聞くと、何でも東京へ出たということでした。それに、東京でもヒリゾ浜の話もたくさん聞くようになりました。それからは、家族を連れて何回もここに遊びに来ましたよ。そして、去年、働いていた会社が早期退職者を募ったので、決心して、ここに移住して、この家を民宿に作り替えたんです」

この話を聞いて、私はすぐに察しました。この人は、ジョージなんだ。私の記憶の中にある小学生からは想像もつかないけれど、あの時の事を覚えていたんだ。そう思うと懐かしくなりました。私は、若いころは、ジョージが東京の王子様のような気がしていたけれど、なんだか、普通のおじさんになってしまったんだ。当然、私も人魚姫やアリエルどころか、普通のおばさんになってしまった訳ですが。せっかくの、ジョージの淡い記憶をぶち壊してしまうのも気の毒とは思ったのですが、私の口が勝手に動いてしまいました。
「そうだったんですか。ところで、中木の人魚姫は、お笑いですよね。ジョージさんに背中をさすられて、お漏らしなんかしてしまって」
これを聞いて、オーナーは信じられないと言う顔で私の事をじっくりと見つめました。
「えっ! まさか?! それじゃ、お客さんは、あの時の女の子?」
そう言って、ジョージは月明かりの下で、依然、私の顔をじっと見ていました。そして、しんみりと言いました。
「あなたは、家族を連れて、この美しい、故郷の中木に、戻って来たんですね」

丁度その時、心配した代智が宿から出てきました。未咲も出てきました。私たちは、何も言わずに、月夜に輝く私の故郷の海を臨みました。暫くして、美咲はしみじみと言いました。
「きれい。すっごく、きれい! こんなところで育ったら、わたしも違ったかもしれない」

私は、子供の頃には想像も出来なかった人生に感謝しました。結局、私は、アンデルセン原作の『人魚姫』のように、海の泡となって消えてしまいはしなかったのです。そしてその時急に、満月を覆うように白い雲が現れました。そして、その雲は、ゆっくりと、舞うかのように変化をしながら見えなくなりました。私は、代智の肩に手を掛けて呟きました。
「あなた、私、結婚してよかった」
代智は、照れ臭そうに、「うん」とだけ言いました。
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