52.富士山

文字数 1,748文字

その後、未咲は、だいぶ普通の若者の様になってきたかと思われました。ただ、時折、驚くような事を言ったり、したりもするのです。この前は、急に、富士山に登りたいと言い出しました。私は、出来る限り未咲の希望を叶えてあげたいと思い、どうしたらいいか聞きました。
「未咲ちゃん、一人で行きたいの?」
返事はありませんでした。どうやら、自分でもはっきりとは分かっていないようでした。それからしばらく経って、また、富士山の事を言いました。
「富士山に登りたいんだけど......」
「え~、一緒に行って欲しいの?」
少し、ためらっていたようですが、返答がありました。
「うん」
どういう理由かは分かりませんでしたが、兎に角、行きたい様でした。

それで、代智と私が同行することになりました。代智は、あまり乗り気とは思えませんでした。私の事を心配しているように繕っていました。
「お前、大丈夫か? 富士山って、日本一の山だろう?」
「私でも、そのくらいは知っています。それに、私、高校の時、陸上部だったって言ったことあるわよね」
「あ~、覚えてるよ。寄り道して、アイスクリーム食べてたんだろ?」
「そう言う事もあったけど。それに、あなた、私は、6年間も自転車で新聞配達の仕事してたのよ」
「そうだったな。それは、大したもんだ。確かに、俺には出来ない技だな。ただ、問題は、今、大丈夫かと言う事だ」
「大丈夫だと思います。それより、あなたの方が心配よねぇ。運動の『う』の字もしたことがないでしょ」
「そうだよな。そっちの方が問題だったな。ちょっと、職場で、聞いてみるかな」

すると、代智の職場には、やはり、富士山に登った事のある人が居て、きちんと計画すれば、病気でもない限り登れると言う事でした。そして、どうしたら良いか教えてくれたのです。

登頂の日、まず、近くのカーシェアリングで車を借りました。その車で、夕刻に5合目まで行き、そこで夕食を取った後、暗くなる頃から登り始めました。未咲は、かなり興奮しているようでした。何を考えているのでしょう? 確かに、聞いた通り、夜の登山は、時間の感覚が麻痺して楽に感じました。6合目まではほとんど登りとは思えないほどでしたし、その後も、それほど大変な思いをせずに8合目まで行けました。そこで、数時間仮眠をして、翌朝、ご来光を見るはずだったのです。あいにく、天気が良くなく、それは出来ませんでした。8合目から頂上までは、前日より、大変になりました。いつの間にか、一面岩だらけになっており、一部ロープを掴んで登らなければならないところとか、まさしく山登りの感覚でした。

やっと頂上に着いた時は、ほっとしたのですが、私は、高山病の兆しで少し、気持ちが悪くなりました。思いがけず、代智は平気で、未咲はと言えば、一人で感激している様子でした。そして、山頂を一周している間に、ほんの十分ほどの間だけ、視界が開けたのです。雲海の隙間を縫って、関東平野の一部を垣間見る事が出来ました。この時、未咲は大いに喜んで、「すごい! スゴイッ!!」と叫んでいました。その時、私は、その辺にあった、「富士箱根伊豆国立公園」と言う看板に気が付きました。なるほど、この富士山頂から、私の故郷の南伊豆まで、一つの広大な国立公園の中にあったのかと、改めて気が付いたのです。それで、その日、伊豆半島は見えませんでしたが、また中木を訪れたいと思いました。

その内に、私の調子も落ち着き、下山を始めました。私は、降りる方がよっぽど楽だろうと思っていたのですが、これは、間違いでした。疲れが出てきたせいか、昼間のせいか、なんだか、やけに時間がかかった気がしました。途中、砂漠を斜めにしたような砂の中を滑りながら降りる所がありました。未咲は、「スキーみたい!」と言って喜んでいましたが、私は、靴の中が砂だらけになって、痛くてしょうがない状態でした。5合目の駐車場に着いた時は、もう暗くなっていて、へとへとでした。代智と私は無言でしたが、未咲は、自分の希望通り、富士山登山を成し遂げて、「嬉しい!」と言って大満足のようでした。この可哀想な未咲は、家族と一緒に行楽したこともなく、自分の計画したことを成し遂げたこともなかったのでしょう。私は、よかったなぁと思いました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み