16.思いがけぬ帰郷

文字数 2,510文字

理科の教師として働き始めて一年も経たない時、父親から突然の知らせがありました。私のことをずっと育ててくれた婆ちゃんが......、亡くなってしまったのです。私にとって、婆ちゃんは母親代わりだし、この灰床夫妻に私の上京の事を掛け合ってくれた人でもあります。前回あった時は元気だと思っていたのに......。最後を看取れなかったことを心苦しく思いました。でも、もう死んでしまったのだから、悔やんでも仕方がない、と諦めました。私はすぐに帰郷する準備をしました。灰床夫妻は、婆ちゃんのいとこなので、行きたいのはやまやまなの様子でしたが、旦那さんの腰痛のため、ご香典を私に託し、家に留まりました。

その夜、真っ暗の中、中木に着いた時は、ぎりぎりでお通夜に間に合い、父親、近所の人々、知り合いに挨拶しました。灰床家の奥さんに借りた喪服はかなりきつかったので、お辞儀をする度に破けはしないかと気になりました。その夜、私は、私と婆ちゃんが一緒に写っている写真をすべてもらいました。翌日は、お寺で質素な葬儀がありました。

その後、用があって町に出た時、理科の教師になったことを伝えようと、高校時代の理科の先生を訪れてみました。お祝いと言って、近くの食堂で早い夕飯をご馳走になりました。私は、興奮して自分の仕事の事を話しました。特に、複雑系の事を授業に織り込むことを必死に説明しました。残念ながら、その点については、この先生は余り興味を示してはくれませんでした。それで、今度は、先生の事を根掘り葉掘り聞き始めました。先生はまだ独身で、一人でアパートに住んでいるとの事でした。相変わらずの単調な日々だと言っていました。先生が勘定を済ませてから言いました。
「青澄先生かぁ。それにしても、よく頑張ったな。新聞配達をしながら、夜学で教師になったとは、たいしたもんだ」
「ありがとうございます。先生に厳しいと言われたので、自分なりの努力をしたつもりです」
「うん、それは、よかった。ところで、青澄、今日は車で来たのか?」
「いいえ。バスで来ました。東京では運転する必要がないので、免許も取っていないんです」
「そうか。じゃ、中木まで送って行こう」

高校の駐車場に戻って先生の車に乗った時、私には高校の時の理科室でのお漏らし事件の記憶が蘇ってきました。おそらく、先生も同じだったのだと思います。この時も、両足をもじもじさせ始めました。思えば、先生は、それまでに私の体に興味を示してくれた唯一の人でした。そして、先生の落ち着きのなさを見て、私は、「この人、まだ、私の体に興味があるに違いない」と確信しました。婆ちゃんが亡くなって、寂しかったせいもあるかもしれません。東京では、結局、優飛君との片想いに破れ、彼氏の一人も出来ず、落胆していたこともあったと思います。通勤中に読んでいた官能小説の影響かも知れません。それに、理科の教師になって、まだ生命の営みを経験したことないなんて、と変な事も考えてしまったのです。なんだか、心臓がドキドキしてきました。次の信号で止まった時、私はスカートを巻き上げ、下着をめくってみました。この時も、先生の目玉が飛び出しました。青信号に変わると、あの時のように、後ろの車にラッパを鳴らされ、慌てて車を走らせました。そして、長年の欲求不満が積み重なって、私は自分でもびっくりするような事を喋ったのです。
「先生、私、もう高校生じゃないから、私と何かあってもクビにはならないでしょ?」
先生は口をパクパク動かして何かを言おうとしているようでしたが、私には何も聞こえませんでした。その後、先生は、急に車の進路を変えると、私を自分のアパートに連れて行きました。

私にとって、それは、この年になるまで長いこと待ち望んでいた体験でした。先生も、私も、恋の証として行動した訳ではありません。二人とも、自分の欲求を満たす動物としての行動だったはずです。それでも、私は、今まで、勝手に想像していただけの感覚を現実に味わってしまったのです。夜が更けてきた時、先生が聞きました。
「青澄、まだ帰らなくて大丈夫か?」
「先生、私もう大人ですよ。今晩泊まってもいい? 私、明日の朝、東京に出発しないと」
「そうか、今晩だけか......。それで~、ひとつ困ったことが......」
私は少し気になってきました。この先生、何か私に知られたくないことがあるのかもしれない。
「先生、何?」
「実は......、まだ明日のテストを作っていないんだ」
「な~んだ、そう言うこと! 私が手伝うわよ。私、理科の教師で良かったでしょ?」

それで、服も着ずに、布団に入ったまま、テストを作り始めました。途中、どうしても、お互いの体に気が散ってしまって、結局テストが出来たのは、もう夜が明けようかという時でした。私は、生徒たちが、先生と違う筆跡の問題もあることに気が付くかなぁと想像して、にやけてしまいました。その後、夜が明け、私の出かけなければならない時間が近づいてきました。「ほんとは、このまま、ここで眠りたい。そして、目が覚めたら、また抱かれたい」と思いつつ、手早く身支度をしました。ひょってして、この先生と一緒に過ごしていたら、いずれは、ほんとの愛が芽生えるのかも知れないとさえ思いました。

その後、先生は、車で、私を、まず中木の実家に連れて行ってくれ、そこで私が荷物を取ってくると、今度は、下田の駅まで送ってくれました。私が東京に戻ってしまえば、もう先生に会うこともないかもしれません。私は視線を上げずに、言いました。
「先生、さようなら」
「青澄、また会いたいな。元気でな」
私には、先生も、私自信も、お互いの事をどのように捉えていたのか、はっきりとは分かりませんでした。

その後、売店で、おにぎりと缶コーヒーを買って、電車の席に着きました。まだ、私の興奮は治まってはいませんでしたし、窓からは明るい朝日が注いでいました。それでも、流石に疲れが出て、買ったものに手を付ける前に、ぐっすりと眠ってしまいました。先生は、多分、テスト中に眠ってしまって、生徒たちはカンニングのし放題だったのでは、と思いました。
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