18.私なりの教育方針(後)

文字数 1,762文字

教育方針についてもう一つ考えていたことは、生徒の評価をテストの点数のように一次元化することは、教育の本質に真っ向から逆らうことだと言う事です。これは、劣等生だった私の負け惜しみと取られるかも知れませんが、そう言う訳ではありません。世の中には、うまくテストをこなせなくて落胆している生徒が沢山いるはずです。そのような生徒だって、自分なりの進路を定めて、社会に貢献している例は山とあるはずです。

それと関係があるのが、カンニングです。なぜ起こるかと言えば、つまらない問題を選んだ上で、カンニングをすれば答えが出てくるような質の低いテストをするからです。極端な事を言えば、カンニングが出来るようなテストは無意味で有害だと思います。あらかじめ決まっている答えがあるようなテスト問題がいけないのです。生徒の評価は、生徒の目標達成度を一人一人の環境に即してなされるべきです。

それで、私が考えている事に、テストなしの評価と言うものがあります。それでは、どうやって授業の目標を達成しているかどうかを見極めるのかと言う疑問が起こるかもしれません。ただ、よく考えてみれば、私たちは皆、日常の生活の中で、ありとあらゆる形で評価されているのです。そして、そのほとんどはテストではありません。多くの場合、一人ずつの心の中で処理され、記録もされないような評価です。それでも、そのような、なんとなしの評価が積み重ねられて、人々は私たちの事を判断する訳です。

当然、生徒たちの評価については、「なんとなく」ではまずいので、私たち教師が意味のある記録を残さなければなりません。その記録には、生徒たちが授業目標をどのように、どのくらい完了してきたかが記されていなければなりません。ただ、その中には、教師の一方的な判断だけでなく、生徒自身の自己評価が入っていてもいいはずです。いいえ、絶対に入っていなければなりません。自分で自分の事が分からない限り、進歩はあり得ないからです。そして、このような記録を集めたものが、芸術の世界で使われているような「ポートフォリオ」ではないかと思いました。

いつの間にか、南伊豆の劣等生が、こんな偉そうな事を言うようになったのです。それは、私なりにたいそうな努力をして、私の使命である自然界、あるいは複雑系の事を生徒に伝えようとしてきたからです。ところが、当然と言えば当然なのかもしれませんが、生徒たちは、そんな私の内心を構う訳がありません。結果的には、私がどんなに努力しても、生徒が今まで以上に授業内容に興味を持ってくれたとは思えませんでした。相変わらず、なかなか言う事を聞いてくれませんでした。授業中も静かにはならないし、宿題をやってこない生徒も多いし、中には、明らかに、問題児もいました。

そして、私が自分で考えたやり方で授業をしようとすると、校長初め何人かの先輩の教師からは睨まれ始めました。この人たちにとっては、無難に、言われた通りの事を黙って実行することが至上の行動とされるようです。そんな按配だったので、私が段々と意気消沈してきた事は否定できません。私の理科の授業はどうしたら良いだろう? 無意味なのだろうか? そう言う疑問が絶えませんでした。

そして、特に大変なのは、問題児の対応でした。これは、私に限らず、他の教師も頭を痛めている事でした。数は少なくとも、問題児に振り回されていると、他の事をじっくりと考えたり、実行している余裕がなくなってしまうのです。中でも、一番の問題児と言えば、黒迷君でした。勉強は全くしないで、わめく、暴れる、サボるの三拍子の毎日でした。例えば、授業中、何の前触れもなく、急に大きな声を出したりするのです。まるで、嵐の到来を思わせます。それから、自分の好きな時に、周りの生徒にちょっかいを出したり、ぶったり、女の子の髪の毛を引っ張ったりもするのです。それで、当然、他の生徒から嫌がられていました。また、気分によっては、サボって、屋上に居たり、校門から出て買い食いをしたりしていたようです。親しい友人はいないようで、一匹狼の様に見受けられました。正直言って、私は、どう対応したら良いか、全く分からなかったのです。「もー! こんな厄介な動物は、近くの多摩動物公園に送っちゃうわよ!」と言うのが本心でした。
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