第7章 第8話

文字数 3,122文字

「雄大。お前にしか、頼めない、だから、頼む。」

 深夜。4時15分。大多慶市の日向邸。
 俺は源さんと向かい合っている。源さんはみなみちゃんの予備のクラブセットを俺に託し、これから安中カントリーに行って欲しい、と言う。

「それにしても、クラブセットを盗まれるなんて… でも、3W、5W、7W、それにパターは?」
「俺のを、入れておいた。あとは、みなみが、何とか、するじゃろ」
「わ、わかりました。取り敢えず、これ持って行きますから」
 源さんが俺の肩を握り、
「頼む、みなみを、助けてやってくれ…」
 俺は深く頷き、バッグを車に載せた。

 スタートは10時15分なので、時間は十分に間に合うだろう。今の所渋滞もないようなので、安中には7時半には到着するだろう。
 しかし… まさか源さんが社長に直で連絡するとは。俺が思っているよりも二人の間柄は深いのかも知れない。
 それにしても、どちらにせよ夕方には安中に行く予定だったのだが、まさかこんな朝イチで行く事になるとは。今日は想定外の事ばかり起こる日だ、自然、みなみちゃんの最終日の出来が不安になってくる。

 ネットの情報によれば、今日はイーブンパーで楽々一次予選突破である。だが、予備とは言え、ウッドやパターがいつもと違うものを使わねばならない、従って今日は何が起こるかわからないだろう。
 それにしても。到着日のバタバタと言い、昨夜の盗難事件と言い。安中という町はみなみちゃんにとって鬼門なのかもしれない。せめて今日、予選通過して気持ちよく引き上げて欲しい。
 車は順調に安中までの距離を縮めていく。ほんのりと空が明るくなってくる。眠気は一切ない。寧ろアドレナリンが出て逸るアクセルを抑えるのに苦労している。
 途中、コーヒー休憩をし、それでも安中市に予定通りの7時半に到着する。

 ホテルの駐車場に車を停め、トランクからみなみちゃんのゴルフバッグを取り出し、フロントに走る。エントランスに入った所でー
 朝食を食べ終わった、みなみちゃんにバッタリ出くわす。

「え… 嘘でしょ… なんで、ゆーだいさん…」
「社長命令で、さ。さあ、ちょっとこのクラブ、チェックしてくれ」
 だが。みなみちゃんは呆然として俺を見詰めたまま動こうとしない。
「おーい、みなみー、どうしたあー?」
「だって… まさか、ゆーだいさんが…」
「俺もビックリだよ。深夜にさ、社長から電話かかって来てさ、今日は有給休暇です、今から大多慶の源さんの所に行きなさい、って。」
「じーちゃん…」
「で? スタートは10時15分だったよな、何時にホテル出るんだ?」
「8時…」
「そっか。よし、俺が送って行くから。クラブ確認してくれ」

 ようやくみなみちゃんは事態を把握したようだ。顔を紅潮させたまま俺の持ってきたクラブバッグを覗き込む。
「うん、これで大丈夫。ウッドもパターも、じーちゃんのだし。何度も使ったことあるし」
 俺は心底ホッとし、
「良かった… じゃあ支度しておいで。この辺で待ってるから」
「あい」
「あ、源さんに連絡しておけよ」
「あい」
 いつまでも部屋に上がろうとしないので、軽くお尻を叩いて促すと漸くエレベーターホールに歩き出した。

「残念だなあ、予選会じゃなくってツアーだったらさ、このままゆーだいさんにキャディーやって貰えるのに〜」
「ハハ、俺もちょっと残念」
 プロテスト予選会は選手に付き添いは認められていない。
「まあ、クラブハウスで待っているよ」
 選手のコーチ、家族などの関係者でクラブハウスはいっぱいだろう。あまりに混雑しているなら、時期も時期なので温泉にでも入りに行こうかな。
 
 車は安中カントリーに到着する。エントランスの雰囲気といい、大多慶カントリークラブにそっくりだと思う。
「そんじゃあ、アタシはここで。練習場に行ってるね」
「うん。車停めたらちょっと見に行くよ」
 俺はみなみちゃんを降ろし、車を止めに行く。既に関係者の車で駐車場はいっぱいだ。一番端っこにそっと停め、クラブハウスに歩いて行く。
 大多慶と違い、ここは山に囲まれている。遠くに浅間山が鷹揚と佇んでいる様はちょっとした旅情を感じさせる。大きく息を吸い込むと、大多慶とは違う山の空気に胸が満たされる。
 こんな所でゴルフがしてみたい。いつかみなみちゃんを連れてラウンドしたい。クラブハウスから見える各コースを眺めながらその思いで胸が昂まる。

 練習場には関係者以外でも入れるので、早速みなみちゃんを見に行く。体付きが他の選手と一回り違うので、すぐに視認する。
 うん、気持ちよさそうに打っている。やはり予備のクラブを購入してやって、本当に良かった。プロでも無いのに、と彼女は断ったのだが、実際こんな事態も起こるのが人生だ。
 確かに出費は相当なもので、俺のボーナスは綺麗にすっ飛んだ。だが。彼女の嬉しそうなスイングを見て、自分の判断の正しさに打ち震える。
 その時、みなみちゃんがこちらを見つけ、軽く右手をあげ、指でO Kを作る。俺は満面の笑みでそれに応える。

 その後選手とは会えることもなく、スタート時間が過ぎていく。予想通り、クラブハウス内は大混雑なので、俺は一人駐車場に向かい、さっき調べた仮眠できる温泉旅館をナビにセットし車をスタートさせる。
 J R信越本線の磯部駅が安中市街に最も近い駅であり、この辺りの温泉街は『磯部温泉』と呼ばれているらしい。俺はこれまで知らなかったが、温泉通の人々にはかなり有名な温泉らしく、温泉記号発祥の地であり、そして明治の児童文学者である巖谷小波がこの地に伝わる舌切り雀伝説を元に、御伽噺の『舌切り雀』を書き上げたことで有名なのだそうだ。

 車を旅館に停め、フロントで手続きをする。小腹が減ったので駅前にあると言ううどん屋で山かけうどんを喰らい、腹をさすりながら温泉街を散策してみる。
 街を流れる碓氷川にかかる愛妻橋から妙義山が綺麗に眺められる。へえ、こんないい所にみなみちゃんは泊まっていたんだ、この景色は堪能したかな、いや試合に来ているからそんな余裕はないだろうな、などと独り想いに耽りつつ旅館に戻り自慢の温泉に浸かる。
 この数日のバタバタ感が綺麗さっぱり流れ去り、仮眠の為に借りた部屋の布団に入ると秒速で意識が遠のいて行くー

「この温泉いいじゃん、ゆーだいくんすごく嬉しいでしょう?」
 陽菜が半身浴の細く白い背中を見せながら素っ頓狂な声をあげるものだから、
「そんな声あげるなよ、他の人に見られるだろ」
「部屋のお風呂なんだから他に人いる訳ないじゃん」
「それでも隣に聞かれたら恥ずかしいだろう」
 陽菜が急に立ち上がり、こちらを振り向きながら
「それ、みなみちゃんに聞かれたら困るんじゃん?」
 俺は目を瞑りながら必死に
「そうじゃないよ、一般論として言っているだけだよ」
 言った後に薄目を開けると、
「ったく、ゆーだいさんは助平なんだから」
 と言ってみなみちゃんが豊かではない胸を張って俺に微笑む。
「ダメだってみなみちゃん! ちゃんとタオル巻かないと!」
「温泉にタオル巻いて入っちゃ、ダメだって! ワンペナだよ!」
 そうか。タオルを巻いて入ると、一打罰だったか。
「ごめんねみなみちゃん、俺がルールちゃんと知らないから」
 すると全裸のみなみちゃんは悲しそうな顔で、
「仕方ねえって。だって、ゆーだいさんは、ゆーだいさんなんだから…」

「ゴメンっ」
 そう叫びながら、ガバッと布団から跳ね起きる。
 あれ、ここって何処…

 暫くして、全ての状況を把握する。時計が4時過ぎを指しており、とっくにみなみちゃんの試合が終わっていることもー

 慌ててスマホを拾い上げ、みなみちゃんからのライン着信をチェックする。
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