第2章 第5話

文字数 3,554文字

 日向みなみとのメールのやり取りは、陽菜とのやり取りで疲れ果て消耗した俺の心の癒しとなっている。

 まず、テンポが、いい。
 月曜日に俺が
『一昨日はお疲れ様。早速だけど、今週の土曜日、ラウンドレッスンお願いできますか?』
 すると火曜日の夕刻に
『いいですよ』
 水曜日に俺が、
『時間は昼過ぎでいいかな?』
 すると木曜日の夜に
『いいですよ』
 金曜日に俺が、
『では明日、十三時スタートで。よろしく』
 すると夜に
『よろしく』

 いい。実にシンプルかつ楽で、とても良い。それに比べ、陽菜とのやり取り…
 週の中頃には土曜日が来るのを待ち焦がれていた。
 
 そして土曜日。先週の大雨とは打って変わっての晴天だ。秋晴れだ。アクアラインから見渡す東京湾がいつになく広々と感じる。一人でゴルフ場へ。初めてのことである。それがこんなにも俺に開放感をもたらすとは。もっと早くから会員になって一人で行っていれば良かったな、なんて思いから、ついついアクセルを踏み込んでしまう。
 先ほどからラインの着信音がぴょんぴょん五月蝿いのを無視して車を走らせる。雲ひとつない晴天の下に房総半島の低いなだらかな山々が目前に広がっている。

 千葉県で最も標高の高い山は愛宕山で408メートル。これは47都道府県の最高峰の中でも最も標高の低い山なのだそうだ。
 房総半島自体がなだらかな丘陵地帯とも言え、従ってゴルフ場も日本で3番目に多いそうだ。だが半島も少し中に入ると深い森林が鬱蒼としており、かつて真言宗などの密教の修験場が多く存在していた。密教の本場の紀伊半島を上からギュッと押し潰したら房総半島になるのかも知れない。
 黒潮の影響なのか、紀伊半島から房総半島に流れ着く人が多かったようで、「白浜」「勝浦」といった紀伊半島にある地名が房総半島にも多くみられる。

 独り千葉うんちくを傾けているうちに車は大多慶G Cに到着する。
 ゴルフクラブを下ろしてもらい、駐車場に車を止める。受付を済ませロッカーで着替えてキャディーマスター室に行く。秋晴れの土曜日。コロナ禍でゴルフの有意性が見直され、大変なゴルフブームである。午前中の最後の組が丁度到着したようだ。
 キャディーマスターの串間さんによると、3時頃にスタート出来そうだとの事なので、俺はこれから2時間ほど練習場で打ち、練習グリーンで転がす予定だ。

 …串間さんを始めとするスタッフの人達がなんかニヤニヤ笑っている。
「…なんかあったのですか?」
「宮崎さん、アレ見て頂戴。アレ いひひ」
 アレ、を見てみた。目を、疑った。
 坊主頭の、背の高い女子、らしき人物がカートを清掃している。

「あの娘ねー、先週門限破っちゃったのよお、そしたら翌朝仲間からバリカン借りて自分から頭丸めて… すいませんでした、以後気をつけますって頭下げられたら、もう誰も何も言えなくて… ってか、笑っちゃって〜 今時、坊主頭、しかも女子… ウケるわよねえ いひひひ」

 坊主頭。高校野球で甲子園を目指す上で、某おぼっちゃま高校を除き、外せない身嗜み。唖然茫然と言うより、唐突に懐かしさが込み上げてくる。同時に、二年の夏の甲子園での敗北、三年夏の都大会準決勝での敗北の悔し涙も込み上げてくる。
 日向みなみが俺を睨めつけながら歩いてくる。
「何ジロジロ見てんだよ」
 俺は万感の思いで坊主頭に手を乗せる。
 ああ、この感触。俺の青春の手触り。
 みなみが不審な顔をする。
 俺の目から涙が一筋零れ落ちる。
 俺たちを取り巻き、スタッフが腹を抱えて苦しそうに笑いを堪えている。

 3時少し前。日はまだ高い。二人でのラウンドスタートだ。
 今日は二人とも担ぎだ。水曜日にゴルフショップでスタンド付きのキャディバックを買い求めたので全然苦ではない、寧ろこれでこそスポーツと思える。
 電動カートで移動するラウンドはスポーツではない。総歩行距離は5000歩も行かないだろう。10キロ近い荷物を抱え、18ホール約6700ヤードを歩く。これぞスポーツだ。上半身も下半身も相当鍛えられるだろう。

 俺はそれに加え、ラフや林間にボールが入った時は罰として走って行くことにした。ほとんどフェアウエーで打てない俺にとっては凄い運動になるのである。
 そんな俺を坊主頭のみなみは呆れて見ていたが、途中からは
「よし。アタシもティーショットしくったら、バービー10回しよっと」
 と面白がって言ったのだが、結局彼女は30回しかバービーしなかったのは流石である。

 彼女の教え方は実に良い。
 俺が聞いたことだけ、的確に言葉少なく答えてくれる。
 俺はレッスンプロについた事がないので、基本中の基本から教わる。例えばグリップの握り方。例えばテークバックの上げ方。例えばフォローの出し方。
 その様な基礎中の基礎も、聞けば簡潔に教えてくれる。そして手本を見せてくれる。

 今日はそんな中でも、傾斜への意識、について目から鱗が落ちる程丁寧に教わった。理論としては雑誌やネットで理解していたのだが、それを実践していたとは言えなかった。
「このティーグランド。傾斜は?」
 7番ホールのティーグランドにて。
「えっと、左足上り、かな」
 これまでティーショットで傾斜なんて考えたこともなかった。
「それだと、フツーに打つとどーなる?」
「あっ 左に…」
「そ。捕まるから左に行きがち。だからどーする?」
「そっか。最初から右向いて構えて。―――おおお!」
「ん。ナイスショッ」

 こんな感じである。上達しない訳が無い。
 しかし。この傾斜ってのは覚えるのが難しい。左足上がりでは? つま先下りでは? と咄嗟に聞かれると即答出来ない。一々頭の中で傾斜とボールとクラブのロフトを思い浮かべ、えっとああでこうだから、右に曲がる、となってしまう。
 みなみ曰く、
「そーゆーの面倒だから、『下りは右、上りは左』って覚えりゃいいんだよ」

 …… 成る程。左足下がりは… 右に出る。つま先下りは… えっと、やはり右だ。これは良い。いちいち脳内で図を構築しなくても咄嗟に判断出来る。左脳で対応できると言う訳か。
 それにしても。ゴルファーって一々こんな対応しているのか… ちょっとくらいの傾斜なんてわからんだろうし変わらんだろ?
「人間の身体ってさ、傾斜1度でもわかるんだって。その傾斜に体が反応すんだって。だからアンタはちゃんとトップするしダフるんだよ。」
「…マジか…」
「ああ。逆に、こんな薄い傾斜でトップできるなんて、相当体の感度が優秀なんじゃね」
「…おい…」
「だから。毎回自分の傾斜を把握して、それにあった打ち方をすれば、大怪我は無くなるよ」
 目から壁が剥がれた気分である。その後のショットは、全部が全部とは行かなかったが、彼女の言う通り全く見当違いの所へ飛ぶことは無くなった!
 恐るべし、傾斜…

「あとは、グリーン周りだな。今度来た時、寄せの練習を時間かけてやんなよ」
 どうしても、彼女のように寄せワンが取れない。ザックリ、トップは少なくなったが、距離感がてんでダメで、カップから半径2メートルに寄せることが出来ない。
「距離感はなあ、練習しかねーわ。逆に、一度距離感掴んじゃえば、あとは腕と腰が覚えてくれるよー」
 よし。ネットで寄せについて調べ尽くしてやる。そして来週、腕と腰が覚えるまで練習してやる。今日は帰りにロストボールを100球買って帰ろう。
「ちょっとこっから打ってみ」
 言われた所から、打つ。4メートルオーバー。
「手だけで打ってるから。それじゃトップやザックリするし。」
 みなみが手本を見せてくれる。綺麗に腰がターンしている。ボールはカップ10センチ横に止まる。
「クソっ 入らんかった。ま、こんな感じ。あとは自分で練習。」
「ハイッ やりますっ」
 初めて中三の時に硬式球を打った時の事を思い出す。
『いいか、手で打つな! 腰を使え!』
 自然と顔が綻んでしまう。
 みなみが怪訝な顔で
「何笑ってんの?」
「ん? 昔のこと思い出してさ。野球でも手で打つな、腰使えって散々言われたなーって」
「ふーん。じゃあ、アタシ野球上手いかも?」
「今度バッセン行ってみる?」
「バッセン…?」
「バッティングセンター。行ったことない?」
「ない」
 首を傾げながらみなみは次のホールへと向かう。

 日も大分傾き、まだ青い木々の葉っぱを赤く照らす。青空が徐々に朱に染まっていき、心なしか空気の匂いも焔の匂いがする。
 既に他のパーティーは上がって風呂にでも浸かっているのだろうか。フェアウェーの緑と夕暮れの朱の美しいコントラストを眺めながら、大きく深呼吸してみる。大粒のクリーンな緑の粒子が肺胞を満たし、世俗に汚れたドス黒い息が吐き出される。
 ああ、ゴルフって…

 少し疲れた身体が夕暮れの緑で癒される。
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