第152話 8月8日

文字数 2,275文字

 俺は野球部が敗戦してからかなり腑抜けていた。あのとき俺があのボールを打っていたらと、もうどうしようもない妄想が頭を離れない。自分なりに全力を出しきって、応援してくれた周りの人たちには本当に感謝しているのは確かなんだけど、それでもあのとき俺が1安打でも打っていたらって思ってしまう。そんな俺はこれからは受験勉強とか言いながら、今はひとり部屋でむかし哲也さんにもらったゲーム機のPS1の実況パワフルプロ野球99開幕版をやりまくっている。勉強する気は全く起らなかった。ひなちゃんの家にも行かなかった。なんせ、俺の進学希望校は今の偏差値の10以上は下なんだからと投げやりになっていた。そんなとき俺のうちに愛さんが1人で訪ねてきた。俺はすぐに愛さんに上がってもらい、扇風機ではなくクーラーをつけた。でも愛さんが俺のうちに1人で訪ねてくるってどんな用なんだろうって不思議に思った。すると愛さんは台所借りるねと持ってきた袋から具材を取り出す。そして愛さんは豚肉の薄切りを茹で始めた。愛さんは手際よく豚肉の冷しゃぶサラダを作ってくれた。俺は久しぶりに食欲が湧く。そういえば最近ろくな食事をしていなかった。
「野球部のことで燃え尽きていないかなって思ったけど、やっぱりそうなってたね。そこは切り替えんなアカンよ。次は受験なんやから」
俺は愛さんが持ってきてくれた旭ポン酢をかけながら、豚しゃぶを食べて「ありがとうございます」って言う。肉を食べるってこんなに大切なことなんやなと思いながら、俺は何となく元気が出る。
「ありがとうって言うなら、慎一さんの気持ちもわかってあげて」
「親父のですか?」
「そう、慎一さんは新太君の思っている以上に立派なお父さんやから」
「親父がですか?」
「そう、8月8日の新太君の誕生日会に来てみ。きっとその辺よくわかるから」
「はあ」と俺は情けない返事をする。愛さんは笑って片付けをして帰って行った。

 俺の誕生日の日に親父と一緒にひなちゃんちに歩く。親父は何も言わない。俺は親父の本当の気持ちがわからなくなる。でも愛さんとの約束の5分前連絡は忘れない。俺は連絡を済ませ親父と歩く。でも親父は何も話さない。ひなちゃんのうちに着いた俺たちは去年のように歓迎を受け、俺はひなちゃんに抱きつかれる。もうほぼ鹿渡と同じコミュニケーションの取り方やんと思いながら、ひなちゃんだけは嫌な気がしない自分もいる。俺はひなちゃんを守って行かないと、という義務感が大きいからだろう。手を消毒してリビングに入ると去年と同じ風景があった。俺たちは椅子に着きひなちゃんは折り畳みの簡易椅子。そして俺には麦茶のペットボトルと親父には缶ビール。こんな光景も今年が最後かと思うとなんか感慨深い。高校に行ったら、俺はバイトするのでこういう機会も最後だ。親父ももう無理して仕事を休む必要はない。それが俺たち親子にとって1番なのだ。そんなことを思っていると、ひなちゃんはナイフとフォークを持ってきてくれて、今年も俺のわがままでステーキなんやと思う。俺たち親子はどれだけ哲也さんや愛さんに迷惑かけてるんやと自分でも情けなくなる。しかし愛さんは「今年は鹿児島の黒毛和牛やから、去年とは一味違うよ」と俺だけにステーキを出す。俺は申し訳ない気分になるが「ありがとうございます」と答えた。俺はご飯大盛りで、ステーキを食べ始める。無茶苦茶美味しい。美味しいものを食べているとき、人はここまで幸せになるのかと自分を疑った。一方親父は缶ビールを次々あけながら哲也さんと愛さんと話してとても楽しそうだ。俺も最近感じていたマイナスな感情が消えていくようになった。夜も更け、俺たちは帰る時間になる。哲也さんは相変わらず親父に大量な缶ビールを押し付け、俺たちは帰路へと付いた。

 そんな帰路の途中親父が突然俺に話しかけてきた。
「なあ、新太。新太は建築を学びたいんやろ? 哲也さんみたいに」
「まあ、俺は将来建築関係の仕事したいと思っているけど」
「それやったら哲也さんにあこがれる気持ちはわかる。だけどもな」と親父は話を切って次に強い口調で言ってきた。
「僕は新太の唯一の親や。だから僕にも親らしい事させろ! 新太が本当は大学で建築学びたいことはわかってるんや。新太にとって僕は頼りない親かもしれんけど、僕は新太のためならいくらでも頑張れる。だから親の僕に遠慮とかしないで甘えてくれ。それが親としての最大の喜びやからな!」
俺は穏やかな親父の初めてのこんなにきつい口調に驚きながらも、実は俺にも大学で建築を学びたいって心の奥底にあった本当の想いを意識する。でも今のうちの経済状況では無理という気持ちが勝っていた。最初から俺はそんなことも初めから考えつかないくらいに諦めていた。だけど、親父は違った。俺のやりたいことのためなら自分はいくらでも頑張れるっていうのだ。俺は今まで無意識に隠してきた自分の本音を認識して、改めて親父に言った。
「親父、俺、ホントは…」
「それ以上言うな。大学は奨学金借りてもらうかもしれないけど、高校や大学の学費なんかは僕が負担する」
その親父の言葉に俺は涙がこぼれた。愛さんが言っていた親父の本当の気持ちってこれだったのか。俺は親父になんて感謝の意を伝えなくてはならないのか? そんな話をしていると親父もいつの間にか泣いていて、気持ち悪い親子が泣きながら夜道を歩いているってシュールな光景になっている。だけど親父は俺にとって唯一の本当の親父なんだと思い、ありがとうって親父には聴こえない声で俺は言っていた。
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