第十項 夢いささか

文字数 1,635文字

 再び、先生はヘカトンケイルに乗り込みました。薬を打ち込んだあと、辺りの景色が揺らいだかと思ったら、先生を飲み込んだ肉塊の頭部から、髪のようなものを放出しました。漆黒の髪はまるで、美津井先生から生えているかのようです。
「ヘラ……か……」
ヘカトンケイルの母親、ゼウスの姉にして正妻、嫉妬深き女神ヘラのようです。黒いロングヘアーの鬼。胸元からは、美津井先生の顔が剥き出しです。確かに先生は、鬼に飲み込まれてしまったように見えます。
「暴力の味、知っちまったもんな」
彼は刀に手をかけて
「それでも、所詮はプレリュードの第一形態」
プレリュード?音楽用語でしょうか。
「俺の敵じゃあない」
 鋭い剣閃が両者の間で交換されます。ヘラはワイヤーの髪を刃として振り乱し、全方位から彼を狙います。物凄い斬撃の雨、でもそれらを掻い潜って、彼はヘラを切り刻みます。
 彼はいつの間にか、ヘッドフォンをしていました。音楽を聞きながら戦っているのでしょうか、リズムに乗ってステップを踏んでいます。
「タッタッタラッ!タッタタッ、タラッ!」
刀を鞘に納めると、高速のステップで小刻みに動き
「タッタタッ、タラッ」
真直ぐに駆けていって
「タッタ、タッタァーッ!」
迎え撃つヘラのワイヤーを
「ハイッ!」
左利きの抜刀で弾き返します。
 彼の刀は捉えられない程に速く、ヘラは思考が追いつかなくなっているようでした。そんな中、彼の鼻歌が最初に戻り
「タッタッタラッ!タッタタッ、タラッ!」
“!”の瞬間に放たれる、更なる刀の連撃が、ヘラの両腕両足の間接を砕きました。

 膝をついたヘラに、彼が歩み寄ります。
「怪力乱神を語らず」
そう呟いたとき、周囲の空気が変わりました。私は見たことがないけれど、裁判のような重苦しくて、厳粛な雰囲気……圧迫感が立ち込めています。
「どうする?それ、捨てられるかい?」
恐らくこの問が、先生が引き返すための最後のチャンス、そう思えて仕方がありませんでした。
「ふ、ふざけるな……今更……今更!」
「ちゃんとしたアルドナイを着け直すだけだ。これまでのことは記録もないし、法では裁けない。俺も貴女を裁くつもりはない。ユッキーたちのことがあってもね。治療して元に戻ったらさ、清く生きてさえくれればいい。殺めてしまった方々の分まで」
「……」
「だから、罰を恐れる必要もない。ただ、やり直せばいいんだ」
「ふ、ふざけんじゃないわよ!こんな、こんな思いをさせられて、生きていけると思ってるの!」
「恥に溺れて、自暴自棄になる必要もない。ここまでのことは、誰にも知られない」
「うるさい!」
 先生は完全にヒステリーになっていました。蓮野さんとの間にあったこと、元々敵であったことを考えれば、反発する気持ちもわかります。でも、ちょっと様子がおかしくて。
「私はずっと頑張ってきたのよ!優等生やって、仕事もして、マンションだって買ったわ!あの学校で、女性で初めての学年主任になったのよ!なのに、なのに……そんな私はいつも一人。男どもは、頑張った私より、若いだけの小娘ばっかりで!」
「なんの話だい?それは貴女が暴走するきっかけだろ?口実だよね?」
たしかに、美津井先生の言動はめちゃくちゃです。化け物になって戦うくらいですから、おかしくなっているのかもしれません。でも、何かを誤魔化そうとしているようにも見えます。
「うるさいうるさい!努力すればするほど一人になるなんて……こんな世界、おかしいわ!」
「そんなに怖いのかい?無理矢理話を逸らしてでも、秘密を守りたいのかい?」
「もういいわ!終わりにしましょう。私かあなた、どちらが生き残るか、どちらがこの世界に必要か、決めようじゃないのよ!」
「勝手だなぁ……まあ、もともと年下に耳を貸すタイプじゃなかったもんね」
やれやれ、というジェスチャーをして
「”下問を恥じず“って言葉、知らないのかな」
判決を、下したようです。
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登場人物紹介

桜苗沙希(さなえさき)(16)

ちょっと天然な、お菓子系の美少女。

パステルカラーがよく似合う。

幼い時に両親が離婚し、心に深い傷を隠し持っている。

それゆえか感受性が強く、不思議な青年、蓮に惹かれてしまう。

蓮野久季(はすのひさき)(21?) 通称:蓮(レン)

その経歴や言動から、とにかく謎の多い青年。

「黒い剣士、銀色の悪魔、ワケあり伊達眼鏡、生きる女難の相」など、いろいろ呼ばれている。

物語の核である、「グラマトン、プラヴァシー、継承者、閉じた輪廻」に密接に関わる、左利きの男。

セト

蓮が利用するアルドナイ(AI)

蓮を「兄サン」と呼び、主に情報収集と相談役として活躍する。

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