第七項 水中戦

文字数 3,530文字

 「ふぐむぅ~~~?」
変な声を上げてごめんなさい。でも、本当にびっくりしたんです。突然周囲が水になって、私は溺れてしまったのですから。
 蓮野さんが鬼を倒し、私は彼の胸で泣きました。だって、部屋にはもう敵がいないと思ったんですもの。でも、まだ一匹残っていました。蓮野さんが乗り込んできたとき、すぐに倒れて死んだふりをしていたようです。そして、私たちが油断したときに牙をむいたのです。
 扉が閉じたあと、部屋の空気が変わりました。夢の世界に迷い込んだかのような、ボーっとする感じです。でも夢見心地とは裏腹に、この部屋は突然、水槽のようにってしまいました。私たちは、囚われの熱帯魚状態です。
 そんな私たちを狙って、手足がタコの触手になった化け物、スキュラが迫ります。高速で泳いで、鞭のように撓った腕を振い、私たちを襲います。
 蓮野さんの表情が変わりました。語り部もわたくし、早苗沙希に代わります。何かを決意し、凛々しい顔つきの蓮野さん。私にヘッドフォンを装着させます。何が何だかわからないでいると、ヘッドフォンから機械の声が。
『落チ着イテ聞イテクダサイ。兄サンノ攻撃ガ始マリマス』
 攻撃?どういうことかわからなかったので、私は静かに見守りました。蓮野さんの左手、手の甲に浮かぶ模様がエメラルドグリーンに光輝きます。すると次第に、高速で泳ぎ回るスキュラが失速しました。
『”マティーニノ法則”デス』
 マティーニの法則、それは水深30メートルくらいから発生する症状で、窒素酔いのことだそうです。10メートル深度を増すごとに、カクテルのマティーニを一杯ずつ飲んでいくのと同じ症状になるそうです。水深90メートルの今、5、6杯のアルコールをいっきに飲まされた状態なのでしょう。
 『敵ハコノ部屋ヲ、アルヘイム(夢の世界)ノ水デ満タシマシタ。デモ兄サンガ、コノ水ヲ現実ノ水ニ置キ換エマシタ。今コノ部屋ハ、海ノ底ト同ジデス』
よくわかりませんが、敵に蓮野さんと同じ異能、プラヴァシーの持ち主がいるようです。その敵が、”この部屋をアルヘイムの偽海に沈めた”というのです。これに対して蓮野さんは、水を物理世界とリンクさせて、本物にしたというのです。しかも、水深90メートルの高水圧の海水に、です。
 『慎重デアルヨリ、果断デアレ』
蓮野さんはダメージを覚悟しては、本気で遊ぶつもりのようです。危機に直面しているのに、能力の出し惜しみをするのはちょっと野暮ですもんね。”本気を出す。一気に進む”って感じでしょう。

 少しすると、スキュラが悶え始めました。
『”スクイーズ”デス』
スクイーズとは、水圧で身体が圧迫されて、痛みが発生することだそうです。海に潜る時、最初に耳抜きをするのですが、それは鼓膜が水圧で押し込まれたのを、耳抜きで空気を送り込んで、痛みをなくすためです。このスクイーズは、鼻のまわりのサイナス(副鼻腔群)や、肺、胃腸でも起きます。それと、虫歯とかで歯に空洞があっても起きるらしく、とんでもない痛みのようです。人体をベースに造られ、パイロットの脳神経とリンクするのが有機サイボーグです。パイロットは酔いも醒める激痛に晒されているのでしょう。
 『兄サンモ、痛ミニ耐エテイマス』
え?どうして蓮野さんが?
 私は彼の状況を知りませんでした。ダイビングの知識もなく、彼が生身でどれほどの痛みに耐えているのかなんて、知る由もなかったのです。彼は自分の防御を犠牲にして、プラヴァシーの異能で私を守ってくれていたのです。せめてヘッドフォンをしていれば、耳の激痛だけでも緩和できたでしょう。彼は今、10気圧もの水圧に晒されているのです。

 そして再び、あの模様が輝きます。するとスキュラが痙攣し、意識を失ってフラフラと浮かび上がって行きました。
 『減圧症デス』
減圧症、空気ボンベが空っぽになったダイバーが、深いところから一気に水面まで泳いだ時に発症します。急激に水圧が下がり、血液に溶けていた窒素が、急に沸騰するそうです。血が沸騰するって、どれほどのことなんでしょう?関節などの激痛(ベンズ)が発生し、神経にも影響が出るそうです。
 蓮野さんはプラヴァシーのスキルで、一気に水面、つまり足のつく深さのゼロ水圧まで戻したようです。水深90メートルの10気圧を、地上の1気圧まで減らしたのです。これが減圧症を引き起こして、一気にスキュラを仕留めたのです。
『減圧症ハ、時間ガ経ッテモ治リマセン』

 スキュラが力を失うと、部屋から水が引いていきました。水浸しではありますが、なんとか現実に還ってきました。蓮野さんは苦しそうに息を切らしていましたが、すぐに起き上がってスキュラのもとに歩み寄りました。そして右脇の拳銃を抜き、中から飛び出した本体である男性に銃弾を浴びせるのです。その後、動かなくなった4匹を、手持ちの手榴弾で破壊しました。
「はぁっ……びっしょりだよ。海水ってさ、ちゃんとシャワーで流さないと、あとでベトベトするよね?」
本当は、立っているのも苦しいはずなのに
「あとで一緒に、お風呂入ろっか?」
無理に微笑んで、軽口を叩いていました。
「ぐっ!」
盾になった蓮野さんが、背中を強打されて悶絶します。
「仕方ねぇな」
何故か水中で喋れる彼は
「ちょい、失礼」
いきなり私にキスしてきました。
「む、ふぐむぅーーー!」
私は当然びっくりです。だって、溺れているとはいえ、まだ人口呼吸は必要ありません。
なのに彼は、いきなり乙女の唇を奪ったのです。もちろん、”いつかは白馬の王子様が”とか、”物語に出てくる宮殿で”とか、そんなことは思っていなかったけど、こんな形でファーストキスが奪われるなんて……
 しばらくショックから立ち直れそうにないので、次の語り部は蓮野さんにお任せです。

 さて、どうしたもんか……
俺は正直迷っていた。水中戦とはいえ、あの程度なら俺の敵じゃない。だが状況がちょっとね。サキちゃんがアルヘイムの偽水に溺れていた。異能者じゃないから仕方ないけどね。だから俺は、この娘とキスでリンクした。俺の体内結界を共有するためだ。これで彼女は水中でも呼吸できるし、偽りの水圧も感じない。だけど、俺はカインを召喚するだけの余裕を失っていた。ああ、カインっていうのは、銀色の悪魔につけた名前ね。ちょっと紹介が遅かったかな?
 話がそれちゃったね。急いで戻さなきゃ。追い詰められた俺たちに、調子に乗った軟体動物が攻撃してくる。こっちが動けないと思って、ヒトの背中を好き勝手に引っ叩きやがるんだ。
 「俺はそういう趣味じゃねぇよ!」
そう怒鳴ってやりたかった。生憎と鞭でぶたれて悦ぶような、M気はないんでね。だけど、水中じゃそれを伝えることもできやしない。とりあえず、今は奴を始末するか。
 俺が勝つ糸口を考えようとする矢先、残念なことが起きた。なんと、部屋に残っていたテロリスト4人の死体が、化け物に変身したんだ。どうやらスキュラの中身の方は、プレリュードの第二形態に覚醒しているらしい。
 第二形態って何?そういう声が聞こえそうだから、説明しておくね。プレリュードの異能者は、人体兵器である化け物に変身できる。これに慣れてくると、第二形態まで進化するやつが現れる。そいつらは、他の感染者を従えることができる。命令するっていうより、”遠隔操作”に近いかな。
 といっても、自分は自分の巨躯をコントロールするので精一杯だからね。他の化け物には単純な命令しか出来ない。だけど、さらに習熟すれば、そいつ一人で化け物の部隊を組織できるようになる。んでもって、今まさに、”そいつとゾンビな仲間たち”に俺たちは包囲されちまったって訳。本当に、どうしたもんかね。”困難な状況で戦う。一回休み”って感じだね。
 5匹の攻撃を回避しながら、水の特徴を思い出してみる。壁を蹴って三角跳びをしながら、反撃方法を考える。音は4倍の速さで伝わり、熱は25倍の速さで奪われる。体温を維持するのが難しいってことね。だから長引くと、こっちが不利だ。他にはないか?何か……
 そんな俺の尻を、あのタコ野郎が引っ叩く。
「ぐっ……」
そのとき俺は思い出した。ケツを打たれて閃くなんてちょっと残念だけど、庶民的ってことで許してね。
  他の4匹は自動で動いてる。電撃でも浴びせれば、水中でショートさせるのは可能だ。でもそんなことしたら、この娘にも被害が及ぶかもしれない。それなら狙いはあのタコだ。やつをピンポイントで潰してやる。そして俺は、左手に宿るプラヴァシーを強力に発動した。
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登場人物紹介

桜苗沙希(さなえさき)(16)

ちょっと天然な、お菓子系の美少女。

パステルカラーがよく似合う。

幼い時に両親が離婚し、心に深い傷を隠し持っている。

それゆえか感受性が強く、不思議な青年、蓮に惹かれてしまう。

蓮野久季(はすのひさき)(21?) 通称:蓮(レン)

その経歴や言動から、とにかく謎の多い青年。

「黒い剣士、銀色の悪魔、ワケあり伊達眼鏡、生きる女難の相」など、いろいろ呼ばれている。

物語の核である、「グラマトン、プラヴァシー、継承者、閉じた輪廻」に密接に関わる、左利きの男。

セト

蓮が利用するアルドナイ(AI)

蓮を「兄サン」と呼び、主に情報収集と相談役として活躍する。

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