第二項 浮世の絆

文字数 1,852文字

 「ああ……なんて幸せなんだ……」
薄暗い部屋、神秘的な音楽と、甘い香りのお香が焚かれています。
「ここは、とっても落ち着く……」
一人の中年男性が座っていまて
「大丈夫よ。さあ、お家でもこのお香を焚いてごらんなさい」
有名な女性占い師が
「あと一歩を踏み出す勇気が湧いてくるわ」
小さな包を手渡します。
「ありがとうございます」
お茶をすする手を止めて、痩せ型で神経質そうな、くたびれたスーツ姿の男性が受け取ります。ありがたそうに、それはそれは、嬉しそうに……
「さあ、奥様の元に戻りなさい」
「はい!これであいつの浮気も、終わるような気がします」

 「お姉ちゃん、またね……」
お久しぶりです。桜苗沙希です。あの事件からもうすぐ1ヶ月経ちます。ひとつの別れと引き換えに、アーちゃん(アルドナイの名前)がつれてきた、ある少年と仲良くなりました。夢の中ですけどね。なのに
「あれ?また忘れちゃった。何だったかなぁ~……あの子のお願い?」
目を覚ますと、夢の内容を忘れてしまいます。前はこんなことなかったんですけどね。
「おっかしぃ~な~」
寝巻き姿で起き上がり、私は鏡の前に座りました。ブラシで寝癖を直しながら、今度はあの夜のこと、彼に助けてもらったときのことを考えてみます。
 「全部、忘れるんだ」
そう言ってかざす、彼の左手が視界を遮るのが浮かんで
「イタッ……」
頭痛に襲われます。痛くって、それ以上思い出すことができません。だから、美津井先生の最期を、私は覚えていないのです。そしてなにより、だんだん蓮野さんの顔も思い出せなくなっているような気がします。どんなに頑張っても、ピンぼけした写真みたいではっきりしないのです。
「いけない!早く着替えないと遅刻しちゃう」
私は急いでテレビをつけて、天気予報を見ながらクローゼットを開きました。

 9月に入って、変わったことがあります。私の周りは平和になったのですが、今度は普通の人、一般市民の事件が増えています。それも毎日のように。今もニュースで、昨晩の事件が報道されています。
 「今日未明、板橋区の住宅街にて火災が発生いたしました」
”また放火”のようです。
「中から、住人と思われる2名の遺体が発見され」
怖いな、って聞いていいると
「妻のハルコさんと思われる遺体には、数十箇所の刺し傷があり」
殺人事件だったようです。妻の浮気を知り、逆上した夫が、妻を刺殺したあと家に火を点け、焼身自殺したとのことです。
「ホントに怖い……」
 ここのところ、さっきのニュースみたいな身近な人の犯行とか、通り魔とか、いろんな暴力事件が起きています。一昨日なんか、暴走したトラックが交差点で横転、そのまま近くの銀行に突っ込んで、たくさんの死傷者が出たそうです。犯人は「大勢殺したかっただけ」と、容疑を認めていたようです。
「どうなってるんだろ……物騒だなぁ」
この社会はアルドナイに監視されているし、精神が不安定になったら、そのヒトに合わせたお薬がすぐに処方されるので、こんなことは起きなかったのに……

 もうひとつの大きな変化は、蓮野さんがチューターを外れたってことです。ユキさんの替りが見つかるまでの、繋ぎ要員だったようです。そういうことになっています。
 会わなくなって、だんだん顔を思い出せなくなって、私の中に彼の居場所はなくなりつつあります。でも、それでも、彼のことが気になって仕方ありません。先生をおびき寄せるために、私を利用したんだとしても、すべてが悪意だったとは思えないんです。だって、何度も殺されそうなところを、助けてくれたのですから。
 「私を……助けて……ううん、守ってくれてた?」
降り注ぐ刃物の雨から、私を守ってくれました。最後まで庇ってくれたのです。
「あなたは」
鏡に映った自分に向かって
「何者なの?」
話しかけていました。鏡をとおしてなら、現実離れした世界で生きる、彼に届きそうな気がして……
 「サ~キ~!」「せんぱ~い!」
そんなとき、表から私を呼ぶ声がします。我に返って
「今行くよぉ~」
窓から二人に手を振りました。
 どうしてだろう?とにかく辛い……毎日彼のことを考えてしまう。忘れないように、必死に思い出そうとしてしまう。
「私は……あのヒトに会って、どうしたいんだろう?」
文句を言いたいの?お礼を言いたいの?それとも……
 自分の気持ちがよくわからない、モヤモヤしたままで、今日という一日をスタートします。
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登場人物紹介

桜苗沙希(さなえさき)(16)

ちょっと天然な、お菓子系の美少女。

パステルカラーがよく似合う。

幼い時に両親が離婚し、心に深い傷を隠し持っている。

それゆえか感受性が強く、不思議な青年、蓮に惹かれてしまう。

蓮野久季(はすのひさき)(21?) 通称:蓮(レン)

その経歴や言動から、とにかく謎の多い青年。

「黒い剣士、銀色の悪魔、ワケあり伊達眼鏡、生きる女難の相」など、いろいろ呼ばれている。

物語の核である、「グラマトン、プラヴァシー、継承者、閉じた輪廻」に密接に関わる、左利きの男。

セト

蓮が利用するアルドナイ(AI)

蓮を「兄サン」と呼び、主に情報収集と相談役として活躍する。

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