十七 悪しき芽

文字数 2,489文字

 日野穣之介と日野唐十郎と坂本右近の三人は、持ちまわりで、日野道場の師範代を務めながら、幕閣の屋敷の出稽古に行く事になった。
 唐十郎にとって稽古の出先が日野道場から大老堀田正俊の屋敷や、他の幕閣の屋敷に変っただけで、さしたる気遣いはなかった。
 新妻のあかねが毎日、日野道場に詰めているため、唐十郎も毎日、道場を訪れている。それを除けば、これまでと変らぬ長屋住まいだった。

 夕刻。
 藤兵衛の長屋で、夕餉の膳を前に、藤兵衛が越後屋の様子を説明した。
「ここひと月あまり、勘定所から沙汰が無いようですぜ・・・」
 越後屋の手代の松吉の連絡で、越後屋幸吉と他の卸問屋の大店は、徳三郎に指示されたとおり勘定所に、
「鎌鼬が出没するゆえ寄り合いはできぬ。赤字にならぬ最低限の卸値にせねば御店が潰れる」
 と伝えていたが、勘定所から何ら音沙汰は無かった。
「あかねの話では・・・・」
 唐十郎は藤兵衛と酒を酌み交しながら、あかねが伝えた、勘定吟味方が行った探索と吟味を説明した。

 ひと月ほど前、越後屋の手代の松吉が、「御上から御触書が届いた」と日野道場を訪ねてきた事は、あかねを通じて大老堀田正俊に伝えられていた。。
 大老堀田正俊はあかねの連絡を受けて事態を把握し、隠密裏に勘定所の物価統制の沙汰を示す証拠を掴むよう、勘定吟味役荻原重秀に指示していた。
 勘定吟味方による、ひと月余りにわたる深夜の隠密裏の探索と、その後のこれまた深夜の厳しい詮議(取り調べ)で、勘定奉行彦坂重治は、
「賂を得るため、不当な価格統制を指示する御触書を、卸問屋の大店に渡していた」
 と認めたが、勘定奉行彦坂重治の証言だけで、若年寄稲葉正休の関与を断定するわけにゆかず、彦坂重治の詮議を表沙汰にせぬまま探索は行き詰まっていた。
「彦坂様。私は、
『彦坂様が上からの指示によって動いたに過ぎぬ。賂を取るような画策をした者が他に居て、立場上、指示に従ったに過ぎぬ』
 そう確信しておりまする。そうではござりませぬか」
 勘定吟味役荻原重秀は、深夜、勘定所に招いた勘定奉行彦坂重治に丁重に対応した。
「・・・・」
「事が発覚すれば、彦坂様は切腹、お家は断絶を免れますまい。とても、あなた様のような方のお考えとは思われませぬ。止むに止まれず指示に従ったと・・・」
 荻原重秀は彦坂重治に微笑み、敵意が無い事を示した。
「・・・・・」
「私どもに協力して、上の者の不正を明らかにしませぬか」
 荻原重秀は、咎を問わぬゆえ、勘定吟味方に協力して不正を暴くよう持ちかけた。
「わかり申した。どのような指示にしろ、行ったのはこの私。どのような沙汰が下ろうと言い逃れるつもりはござらぬ。荻原様の指示に従いまする。
 どのようにしたら、よかろうか」
 咎人として扱われるだろうと覚悟した彦坂重治は、これまで行われた荻原重秀の丁重な扱いに目に涙を浮かべている。
「では、今まで通り、勘定奉行を続けてくだされ」
 彦坂重治はさらに驚いた。
「今宵、彦坂様と私がここで会っているように、こたびの探索は、すべて忍びによって夜中に行われ、これまでの彦坂様の詮議も夜中に行われました。
 他に気遣れてはいないはず。心配には及びませぬ」
 驚いている勘定奉行彦坂重治に、勘定吟味役荻原重秀は笑顔を見せた。


 唐十郎の説明を聞き、藤兵衛は溜息をついた。
「するってえと、荻原重秀様は、勘定奉行彦坂重治を抱き込んだのですかい」
「そういうことだ。若年寄稲葉正休の尻尾を掴むために勘定奉行彦坂重治を泳がせる策は、勘定吟味役荻原重秀様の発案との事。
 大老堀田正様も感心しているらしい」
「大老ではなく、義父上でござんしょう」
 藤兵衛は笑っている。
「それにしても、若年寄稲葉正休の尻尾を掴めるんですかね」
「すでに、一部は掴んでいるらしい・・・・」
 唐十郎は杯を口へ運びながら、あかねが伝えた若年寄稲葉正休について語った。

 昨年夏。
 若年寄稲葉正休は度重なる水害に見舞われた淀川を視察し、「淀川治水策」を提出した。
 大老堀田正俊は、若年寄稲葉正休が提出した治水工事に関わる費用、四万両を不審に思い、視察に同行した治水工事請負商の河村瑞賢に、正式な治水費用を提出させた。
 河村瑞賢が工事費用の二万両を提出したため、若年寄稲葉正休のずさんな見積もりが発覚した。
 この段階では、若年寄稲葉正休が実際の費用より高い試算を提出して、実際の費用との差額を着服しようと考えたか否かは証明されなかった。
 悪しき芽は摘むべし。大老堀田正俊の采配で、若年寄稲葉正休は、全ての治水事業の任から外されたと言う。


 唐十郎の話に藤兵衛が納得した。                   
「それで今度は、江戸の天下普請で、卸問屋の大店を相手に賂を取ろうって事か。
 稲葉正休は根っからの悪党なんすね」
「稲葉正休は、堀田正俊様が密かに探索しているのを知っている。
 あかねはそう申して、堀田正俊様の身を案じている・・・」
 唐十郎は杯を口へ運んだ。藤兵衛は箸でかき菜の胡麻和えを摘まんで口に入れて言う。
「私腹を肥やすために、正当な政をする者が邪魔って事ですかい。
 堀田様を失脚させるために、稲葉正休が何かするんですかね」

「うむ・・・。抹殺だろう。あかねはそう見ている」
「えっ!なんてこった!」
 藤兵衛は驚いて箸を止めた。
「もっとも危険なのは城内だ、とあかねは言って、今、父上の屋敷に詰めている・・・」
 城外なら幕閣にはそれなりの警護が付く。大老堀田正俊は己が危険な状況に置かれているのを察している。城外に出る時は相応の警護体制を固めているはずだ。
 最も危険なのは警護が手薄になる城内だ。

「では、唐十郎様たちの手が届かぬ所で、事が起ると言うんのですかっ」
 これまで唐十郎を旦那と呼んでいた藤兵衛の町人口調が、特使探索方のそれに変った。いつまでも町人と侍の区別をしていられぬと判断したらしい。
「おそらく城内であろう」
 刃傷沙汰か毒殺か、それとも絞殺か・・・。しかし、我々は城内どころか郭内にも入れぬ・・・。
 唐十郎たちが心配する間に、何事もなくふた月余りが過ぎた。
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