十八 検視 その二

文字数 2,189文字

 朝五ツ(午前八時)。
 廻船問屋吉田屋の大番頭は、朝五ツになっても店に顔を出さない主の吉次郎を気づかって奥座敷へ吉次郎の様子を見にいった。
 大番頭は、臥所で頸動脈を刎ねられて血まみれの吉次郎を見て、ただちに大伝馬町の自身番へ知らせたが、町方は留守だった。町奉行所へ知らせると、町方は捕物のため二時(ふたとき)ほど前(暁七ツ(午前四時))に町奉行所を出ていた。

 昼四ツ(午前十時)
 町奉行所の知らせで、徳三郎と町医者竹原松月は、新大坂町の廻船問屋吉田屋の奥座敷で吉次郎を検視した。
 大捕物から戻った与力の藤堂八郎は検視に立ち会いながら、明け六ツ(午前六時)過ぎの刺客捕縛を説明した。
「隅田村の堀切橋の船着場付近で、捕方が部切船から長柄杓で刺客らに下肥を浴びせ、ひるんだ全員を捕縛しました。
 刺客たちの舟は下肥まみれゆえ、捕縛した刺客たちを部切船の肥溜めに叩き込んで茅場町の大番屋へしょっぴく途中で・・・」

「もうそのへんでよかろう。プンプン臭ってくる・・・」
 徳三郎が鼻を摘まんで顔をしかめた。
 医者の竹原松月は苦笑しながら、斬殺された吉次郎を藤堂八郎に示した。
 吉次郎は刀を手にしたまま、布団の上で頸動脈と喉を刎ねられて大量に出血している。枕のそばに鞘があり、床の間の刀掛けが倒れている。掛け布団ははね除けてあるが、抵抗した様子はない。
 竹原松月が説明する。
「仏は下手人に気づいて、床の間の刀を取ったが間に合わず、頸動脈と喉を刎ねられて、大量に出血して事切れた」

 徳三郎が、藤堂八郎に吉次郎の左首を示して言う。
「この斬傷、かなりの手練(てだ)れだ。見事と言うしかない・・・」
 頸動脈と喉だけを鋒で刎ねるのは至難の業だ。それを下手人はたやすくやってのけて、人知れずこの部屋から退出したと思われる。それが証に、座敷の外廊下の雨戸は内側から閂がかかっており、下手人が座敷に居た痕跡はない。返り血も浴びていないだろう・・・。

「では、また鎌鼬の仕業ですか」
「そうとしか思えぬ。手掛りが何も無い・・・」
 徳三郎は困ったものだと思った。特使探索方の実の上役、勘定吟味役荻原重秀様に報告できない・・・。
 徳三郎は、今は亡き大老堀田正俊の命によって、勘定吟味役荻原重秀の配下の特使探索方は仰せつかる際に、大老堀田正俊が語った事を思いだした。

 勘定吟味役荻原重秀の屋敷の座敷で、大老堀田正俊は杯の酒を一口飲んで話した。
「日野殿は、こたびの件をいかように思っておいでか。こう聞くのも妙でござるな・・・。
 この甥(密談の場であったため、大老堀田正俊は勘定吟味役荻原重秀を甥と呼んだ)が言うには、
『鎌鼬に殺られなければ、讃岐屋を襲った下手人は、讃岐屋を皆殺しにしたであろうから、捕縛されたならば死罪。抜け荷や談合をしていた店主はきつい咎めを受けて、市中引きまわしの際に町人や百姓に石礫を投げられて、怪我から病死は免れなかったはず。鎌鼬の出現で、町奉行所と評定所の手間が省けた』
 と申しておるしだいで、喜んでいいものやら、私も途方にくれておる・・・」


 あの密談の場で、堀田様は、儂に特使探索方を申し付けるにあたり、特使探索方の実の上役である勘定吟味役荻原重秀様と儂に、
『鎌鼬の所業を黙認しろ』
 と話したかったのではあるまいか・・・。
 それが証に、勘定吟味役の荻原重様は、香具師の元締藤五郎が鎌鼬に惨殺された件を報告しても、下手人を挙げろ、とは言わなかった・・・。
 荻原様は下手人が誰か、鎌鼬が誰か、知っているのではあるまいか・・・。
 いや、それどころか、
『鎌鼬は、今は亡き大老堀田正俊様の命により、咎人を処罰している』
 と見るのが正しかろう・・・。
 そう考えながら、徳三郎は藤堂八郎に尋ねた。

「ところで、刺客に下肥を浴びせて捕縛するのは、藤堂様の策ですかな」
 徳三郎は、昨夕、使いに来た正太から、刺客たちを捕縛する策を聞いているが、あえてそう尋ねた。

「いやいや、唐十郎さんでござるよ。実に希有な策にて、皆、恐縮しております」
 藤堂八郎は苦笑いして顔と鼻を歪めた。どこからともなく下肥が臭った。どこかで下肥を買付けているらしい・・・。

「ところで、廻船問屋吉田屋と、香具師の元締藤五郎の跡目は、どうなるとお考えか」
 徳三郎は藤堂八郎にそう訊いた。この件も、徳三郎は、特使探索方の実の上役である勘定吟味役荻原重秀と打合せずみだ。

「吉次郎は香具師の元締藤五郎の甥を騙って香具師の元締の後目を継ぎ、他の廻船問屋に対する脅しと強請(ゆすり)、下肥商いの縄張り荒らし、弥助殺害を行い、隅田村の百姓と肥問屋吉田屋襲を企てた。
 吉次郎の悪行非道は明らかだ。廻船問屋吉田屋は取り潰し、家族と奉公人は島流し、親類縁者は江戸所払い、刺客は打ち首を免れまい。
 お藤は、亀甲屋の奉公人を守るために、藤五郎の養女である事を隠して、仁吉とともに、こたびの下肥騒動解決に協力した。
 御上はお藤に温情をかけて養女の件に目をつぶり、肥問屋吉田屋を存続させて、いずれは藤五郎の跡目を継がせ、お藤を御上の紐付きにして、香具師たちの裏の動きを探る気だ。
 御上も憎いことをするものよ」
 そう言って藤堂八郎は苦笑いしている。

 お藤を御上の紐付きにする案は、徳三郎が特使探索方の上役、勘定吟味役荻原重秀に提案した案だったが、与力藤堂八郎は知る由もなかった。

(三章 部切船 了)
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