四 母方の遠縁
文字数 2,064文字
藤兵衛の長屋で朝餉をすませ、唐十郎は妖刀を布に包んで携えて長屋を出た。向う先は浅草熱田明神そばの日野道場である。
日野道場に着くと道場内は異様にざわついていた。
「どうした、穣之介」
「日本橋の讃岐屋に入った賊が何者かに斬殺された件で、門下生が浮き足立っている。未熟者ばかりだ・・・」
穣之介の眼差しは門下生に向けられた。噂話を話す門下生に苦笑している。
「これでは稽古にならぬな・・・。伯父上はどうした」
「讃岐屋に入った賊の件で奉行所から使いが来て、早くに出かけた」
「ならば今日はこれで帰る」
「すまぬな。叔母上は健在か」
「今月はまだ会っていない。これから行こうと思う」
「よろしく伝えてくれ。
少ないが今月の出稽古の礼だ」
穣之介は懐から紙包みを取りだして唐十郎に渡した。
穣之介の父の日野徳三郎は唐十郎の母の兄で、従兄の穣之介は唐十郎の二歳上である。
徳三郎の妹が須坂藩の江戸上屋敷へ奉公に上がった折に、藩主に見初められて、唐十郎が生まれた。すでに藩主は正室とのあいだに二人の男子があり、唐十郎の存在が藩の表に出ることはなかった。
しかし、剣術にかけて秀でた才が有り、伯父の徳三郎から実の息子以上に目をかけられている唐十郎である。
日野道場を出た唐十郎は大川端を戻って、母が待つ南八丁堀の須坂藩上屋敷へは行かず、日本橋の甲州屋を訪ねた。店の手代に、藤兵衛の身内と名乗って、店の裏手へ通された。
武士崩れの大工である藤兵衛の評判は有名で、唐十郎はいつも藤兵衛の身内として仕事先へ出入りできた。
「旦那。筋向いの件はもうお聞きですか。鎌鼬様が人助けくださいました。これも信心のおかげで・・・」
手代は唐十郎を中庭へ案内しながら、讃岐屋の件をそう話した。
甲州屋の離れは濡れ縁が朽ちて、雨戸の補修と濡れ縁の張り換えが藤兵衛の仕事だった。
唐十郎を見て、藤兵衛が仕事の手を止めた。
「旦那。道場の稽古はいいんですかい」
「今日は讃岐屋の件で門下生が浮き足立って、稽古に身が入らぬのだ。
奉行所が叔父上を呼んだ。今回の一件で何かあるらしい」
伯父の徳三郎が呼ばれたのは太刀筋の検視であり、賊が斬殺された証だった。
唐十郎の訪問を聞いて、女将が店の者に早めのお茶を用意させた。
「これはこれは唐十郎様、よくいらっしゃいました。お茶を用意いたしました。こちらにお座りくださいまし。棟梁も休んでおくれ」
「女将。すまぬな」
唐十郎は縁側に腰かけて、妖刀の包みを縁側に立てかけた。
「すまねえ、女将さん。正太、休みにするぜ」
藤兵衛は女将に礼を言って正太を呼んだ。へい、と返事して正太が縁側に座った。
藤兵衛は茶をすすって、俺の分も食ってくれ、と茶請けの饅頭を正太に渡し、煙管に煙草を詰めてふかした。日頃なら女将と世間話の一つもするのだが、今は唐十郎が居る。町人の藤兵衛は唐十郎を立てている。
女将もそのことを承知して、
「讃岐屋に押し入った賊が鎌鼬にすっぱり殺られて、御店(おたな)の皆が助かったなんて、ほんとに不幸中の幸いですよ」
と讃岐屋の件を話しはじめた。
「押し込みは、皆、死んだのか」と唐十郎。
「ええ、四人ともばっさりと殺られて首と胴が離れてたそうですよ」
私は気味悪いから見にゆかなかったんですけどね。
店の若い者が見てきて、そう話してました」と女将。
「押し込みの他に、人の出入りはなかったのか」
「讃岐屋さんの話では、押し込みだけだったらしいですよ」
たとえ浪人風情であろうと、町人には武士に話さぬ事がある。藤兵衛の事ではない。生まれもっての町人の事である。
町人には町人の暮らしがあり、武士とは違うとの思いがある。なぜそうなのか、長屋で寝起きするようになってから、おぼろに理解できるようになったが、細かな事は、幼少の頃から身につけた武士としての慣習がじゃまし、いまひとつ理解しがたい唐十郎である。
鎌鼬や不動明王の護符や仏事、神事にまつわるものがそれで、唐十郎の苦手なものだった。甲州屋の女将も、説明抜きで、讃岐屋を救ったのが鎌鼬様で主が日頃から信心深い結果だ、と思いこんでいる。
「正太、仕事にもどるぜ」
お茶の礼を言って、藤兵衛が作業に戻った。
唐十郎はお茶を飲みながら、作業する藤兵衛の動きに視線を移した。
「ところで、旦那と棟梁はどのようなご関係ですか」
不思議そうな顔で女将は唐十郎を見ている。
「藤兵衛は母方の遠縁に当る・・・」
唐十郎はそれしか言わなかった。
実を言えば、藤兵衛は唐十郎の遠縁ではない。唐十郎の乳母が藤兵衛の遠縁に当る。
唐十郎が須坂藩の上屋敷から引っ越す際、町人の知り合いとして藤兵衛の名があがり、それ以来、藤兵衛は母方の遠縁という立場になっている。
「それでは棟梁も、もとはお武家様ですか」
「なんと説明したらよいか・・・」
唐十郎は言葉を濁した。
「ああぁ、頭領の身内が養女になられた・・・」
女将は納得した素振りを示した。町人の娘が武家の養女となって武家に嫁ぐのはよくある事なのだ。
日野道場に着くと道場内は異様にざわついていた。
「どうした、穣之介」
「日本橋の讃岐屋に入った賊が何者かに斬殺された件で、門下生が浮き足立っている。未熟者ばかりだ・・・」
穣之介の眼差しは門下生に向けられた。噂話を話す門下生に苦笑している。
「これでは稽古にならぬな・・・。伯父上はどうした」
「讃岐屋に入った賊の件で奉行所から使いが来て、早くに出かけた」
「ならば今日はこれで帰る」
「すまぬな。叔母上は健在か」
「今月はまだ会っていない。これから行こうと思う」
「よろしく伝えてくれ。
少ないが今月の出稽古の礼だ」
穣之介は懐から紙包みを取りだして唐十郎に渡した。
穣之介の父の日野徳三郎は唐十郎の母の兄で、従兄の穣之介は唐十郎の二歳上である。
徳三郎の妹が須坂藩の江戸上屋敷へ奉公に上がった折に、藩主に見初められて、唐十郎が生まれた。すでに藩主は正室とのあいだに二人の男子があり、唐十郎の存在が藩の表に出ることはなかった。
しかし、剣術にかけて秀でた才が有り、伯父の徳三郎から実の息子以上に目をかけられている唐十郎である。
日野道場を出た唐十郎は大川端を戻って、母が待つ南八丁堀の須坂藩上屋敷へは行かず、日本橋の甲州屋を訪ねた。店の手代に、藤兵衛の身内と名乗って、店の裏手へ通された。
武士崩れの大工である藤兵衛の評判は有名で、唐十郎はいつも藤兵衛の身内として仕事先へ出入りできた。
「旦那。筋向いの件はもうお聞きですか。鎌鼬様が人助けくださいました。これも信心のおかげで・・・」
手代は唐十郎を中庭へ案内しながら、讃岐屋の件をそう話した。
甲州屋の離れは濡れ縁が朽ちて、雨戸の補修と濡れ縁の張り換えが藤兵衛の仕事だった。
唐十郎を見て、藤兵衛が仕事の手を止めた。
「旦那。道場の稽古はいいんですかい」
「今日は讃岐屋の件で門下生が浮き足立って、稽古に身が入らぬのだ。
奉行所が叔父上を呼んだ。今回の一件で何かあるらしい」
伯父の徳三郎が呼ばれたのは太刀筋の検視であり、賊が斬殺された証だった。
唐十郎の訪問を聞いて、女将が店の者に早めのお茶を用意させた。
「これはこれは唐十郎様、よくいらっしゃいました。お茶を用意いたしました。こちらにお座りくださいまし。棟梁も休んでおくれ」
「女将。すまぬな」
唐十郎は縁側に腰かけて、妖刀の包みを縁側に立てかけた。
「すまねえ、女将さん。正太、休みにするぜ」
藤兵衛は女将に礼を言って正太を呼んだ。へい、と返事して正太が縁側に座った。
藤兵衛は茶をすすって、俺の分も食ってくれ、と茶請けの饅頭を正太に渡し、煙管に煙草を詰めてふかした。日頃なら女将と世間話の一つもするのだが、今は唐十郎が居る。町人の藤兵衛は唐十郎を立てている。
女将もそのことを承知して、
「讃岐屋に押し入った賊が鎌鼬にすっぱり殺られて、御店(おたな)の皆が助かったなんて、ほんとに不幸中の幸いですよ」
と讃岐屋の件を話しはじめた。
「押し込みは、皆、死んだのか」と唐十郎。
「ええ、四人ともばっさりと殺られて首と胴が離れてたそうですよ」
私は気味悪いから見にゆかなかったんですけどね。
店の若い者が見てきて、そう話してました」と女将。
「押し込みの他に、人の出入りはなかったのか」
「讃岐屋さんの話では、押し込みだけだったらしいですよ」
たとえ浪人風情であろうと、町人には武士に話さぬ事がある。藤兵衛の事ではない。生まれもっての町人の事である。
町人には町人の暮らしがあり、武士とは違うとの思いがある。なぜそうなのか、長屋で寝起きするようになってから、おぼろに理解できるようになったが、細かな事は、幼少の頃から身につけた武士としての慣習がじゃまし、いまひとつ理解しがたい唐十郎である。
鎌鼬や不動明王の護符や仏事、神事にまつわるものがそれで、唐十郎の苦手なものだった。甲州屋の女将も、説明抜きで、讃岐屋を救ったのが鎌鼬様で主が日頃から信心深い結果だ、と思いこんでいる。
「正太、仕事にもどるぜ」
お茶の礼を言って、藤兵衛が作業に戻った。
唐十郎はお茶を飲みながら、作業する藤兵衛の動きに視線を移した。
「ところで、旦那と棟梁はどのようなご関係ですか」
不思議そうな顔で女将は唐十郎を見ている。
「藤兵衛は母方の遠縁に当る・・・」
唐十郎はそれしか言わなかった。
実を言えば、藤兵衛は唐十郎の遠縁ではない。唐十郎の乳母が藤兵衛の遠縁に当る。
唐十郎が須坂藩の上屋敷から引っ越す際、町人の知り合いとして藤兵衛の名があがり、それ以来、藤兵衛は母方の遠縁という立場になっている。
「それでは棟梁も、もとはお武家様ですか」
「なんと説明したらよいか・・・」
唐十郎は言葉を濁した。
「ああぁ、頭領の身内が養女になられた・・・」
女将は納得した素振りを示した。町人の娘が武家の養女となって武家に嫁ぐのはよくある事なのだ。