十六 密談

文字数 1,491文字

 夜になって生暖かい風が吹いて日中の秋晴れが一変し、星も見えぬ曇天になった。

 夜四ツ(午後十時)を過ぎた頃。
 田所町の亀甲屋の、雨戸を閉め切った奥座敷に明りが灯っていた。
「まあ、一献・・・」
 酒肴の膳を前に、藤五郎は銚子を取って鍼師の室橋幻庵に酒を勧めた。藤五郎の手指は筋張って細い。腕は筋肉に包まれた贅肉のない若者のような鍛えられたものだった。

 幻庵は頬に薄笑いを浮かべて、藤五郎が持っている銚子の前へ杯を差しだした。
「しばし、静かにしておりませぬと、目をつけられますゆえ、薬は控えるよう伝えました」
 藤五郎にくらべ、幻庵の腕も手指も、これで鍼治療できるのかと思えるほどに、酒食に肥えた贅肉が載っている。 

「六助も吉右衛門も、うっかりして堀にはまった・・・」
 藤五郎は銚子を置いて自分の杯を幻庵の前へ差しだして、幻庵が銚子を取って杯に酒を注ぐのを見ている。吉右衛門も六助も余計な事を口走ったため堀に落ちたと言いたいのだ。
「うっかりせぬ者を探しませぬと、足がつきまする・・・」
 そう言って幻庵が藤五郎の杯に酒を注ぐと、藤五郎が殺気だった鋭い皆差しで幻庵を睨みつけた。
「いえいえ、元締めに忠告しているのではございません。吉右衛門も六助も、人選したのは私ですので、私への戒めです・・・」
 幻庵は戸惑いを顔に表さなかったが、びっしょりと背に冷や汗をかいていた。山形屋吉右衛門も六助も、藤五郎が思いついて幻庵に意見を求めた人選で、幻庵の人選ではなかった。
「堀に落ちる者が増えぬようにせねばな・・・」
 藤五郎は穏やかに言って、幻庵に杯を開けるように目配せし、自分の杯の酒を飲み干した。
「さあ、無礼講じゃ。手酌で飲んでくれ・・・」
 それから、藤五郎は酒食を共にしながら、幻庵と夜更けまで語りあった。


 夜九ツ(子の刻、午前零時)過ぎ。
 幻庵は、入ってきた時のように、亀甲屋の奥座敷から隠し潜り戸を抜けて、田所町と長谷川町の間の通りへ出た。
 何処にも抜け道をこしらえておく元締めの用心深さには驚く・・・。
 幻庵は提灯を片手に、今、抜けてきた隠し潜り戸を思いながら帰宅路を急いだ。
 元締めは六助から、吉右衛門がうっかりして菓子折りの中身を六助に話した事を聞いた・・・。二人とも余計な事を口走ったため、堀へ突き落されて口を封じられた・・・。私も注意せねばならない・・・。
 幻庵は田所町と長谷川町の間の通りを西へ進み、新材木町の南隣の南材木町から、万橋の東詰へ出た。

 万橋を渡りはじめた時、
「火の用心なさいませ・・・。夜も遅うございます。お気をつけてお帰りを・・・」
 西詰めの堀江町一丁目と二丁目の間の通りから、拍子木を打ちながら橋を渡ってくる夜回りが、幻庵に声をかけた。
 幻庵は医者の礼服の十徳を羽織って薬箱を持ち、剃髪に焙烙頭巾(ほうろくずきん)を被っている。付け人はいないが、医者が往診の帰りで遅くなったと判断できる服装である。

「ご苦労様にでございまする・・・」
 幻庵は夜回りに丁寧に答えてすれ違った。その直後、夜回りの提灯が消えた。
 幻庵は全く気遣ぬまま万橋を西へ渡り終えたその時、首筋上の後頭部に違和感を覚えて、手から提灯と薬箱が滑り落ちるのを感じたまま、意識が遠のいた。
 夜回りはすぐさま幻庵の提灯を受け止めて火を吹き消し、崩れ落ちる幻庵に肩を貸すようにして抱えて、万橋の西詰めから堀端へ幻庵を運び、幻庵の躰を堀の石垣にそわせて、足からずるずると堀へ入水させた。そして薬箱と提灯を堀端へ投げ捨て、堀江町一丁目と二丁目の間の通りを西へ戻っていった。
 幻庵が落下した堀は、新材木町から続く六助が発見された堀だった。
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