一 奉公の誘い

文字数 1,678文字

 神無月(十月)二十日、昼九ツ半(午後一時)。
 閉めきった雨戸が数枚、半開きに開けられて、店の板の間に午後の陽が射している。
 吉次郎は上り框の座布団に腰をおろして、畳に正座している亀甲屋の手代仁吉に笑顔を向けた。吉次郎は日本橋新大坂町のお堀端で廻船問屋吉田屋を営んでいる。

「仁吉さん。伯父は殺しと抜け荷で鎌鼬に天誅を下されて他界した。番頭の吾介は抜け荷の(とが)で島流しの沙汰が下った。伯父のこの亀甲屋も、今月いっぱいでお取り潰しになる。
 これも御上の沙汰だから、私らは手出しできません。しかしながら、お情けで奉公人は五年の江戸所払いになった。幸いというしかありませんよ」
「はい・・・」
 亀甲屋藤五郎と番頭吾介の悪事で何も知らぬ奉公人が憂き目を見た。こんな理不尽があっていいはずがない。悔しさのあまり、正座している亀甲屋の手代仁吉は、膝に乗せた手を握りしめた。

「これまで私は、伯父にずいぶん商売を助けて頂いた(・・・・・)。だが、もう伯父はいない。
 そこでだ。亀甲屋の手代をなさっていた仁吉さんのことだ。なにかと御店と奉公人を動かす力がおありだ。
 亀甲屋の奉公人を引き連れて、うちの御店で働いてはくれまいか」
 藤五郎の腹違いの妹の息子だという吉次郎は、親子ほど歳の離れた亀甲屋の若い手代仁吉にやさしくそう告げた。
「そのお言葉、ありがたくちょうだいします。
 しかしながら、奉公人は五年の江戸所払いですので・・・」
 頂いた(・・・・・)、などと、とってつけた慣れぬ言葉を使って、藤五郎に対してへりくだる吉次郎は、吉次郎が藤五郎の甥ではないことを示したが、当人はそのことに気づいていなかった。仁吉は、この男は間抜けだ、と思った。

「私に考えがあるのだよ。
 隅田村に、私の御店の出店がある。みなで隅田村に住んではくれまいか」
「出店では、いかような商いをなさっておいでですか」
 仁吉はどんな商売を手伝うのか気になった。隅田村は大川の東岸、浅草の対岸だ。江戸とは呼ばぬが、江戸に住んでいるようなものだ。

 仁吉の顔に何か明るいものを感じて、吉次郎は説明する。
「今、うちの御店では金肥(きんぴ)を隅田村の出店から村々に商っている。
 それでな、こんどは下肥(しもごえ)も商おうと思う。臭い仕事でな・・・。
 それでよければ、手伝って欲しいのだよ」
 吉次郎は肥商(こえあきな)いを話した。商うものは油粕や干鰯(ほしか)(にしん)〆粕(しめかす)だ。それに屎尿など下肥が加わるのだ。

「私はかまいませんが、奉公人たちが何と言いますか・・・」
 仁吉はわざと困った素振りを見せた。
「もう亀甲屋の暖簾はありませんよ。江戸を所払いされたら宿と仕事がありますか」
 吉次郎は言葉やさしく、仁吉たち奉公人の弱みを鋭く突いた。狡猾な目つきになっている。

「いえ、この亀甲屋を追いだされたら、みな、行く所がありません」
「神無月も下旬、年の瀬も近いこの折、ひとまず、私どもの肥商いを手伝ってくれまいか」
 吉次郎が口をちょっと歪めてこぼれそうな笑みをこらえ、値踏みするように仁吉を見た。
「わかりました。みな、と言っても十二人ですが、話してみます」
 仁吉はしぶしぶ承知したようにそう言った。 
「良い返事を待っていますよ。では、明日、また伺います」
 吉次郎は暖簾を外した亀甲屋から出ていった。


 吉次郎が店を出てしばらくすると仁吉は
「お藤さん。どう思う」
 店の隣の座敷に向って声をかけた。
 襖が開いて、仁吉と同じ年頃のお藤が現れて仁吉のそばに座った。
「商いの話に、嘘は無さそうだ。
 吉次郎は(かしら)の甥ではない。吉次郎が勝手に頭を伯父と呼んでいるだけだ。
 その事は、お前さんもよく知ってのこと」
 お藤は吉次郎が出ていった店の雨戸に、怒りの眼差しを向けた。

「ああ、わかっていた・・・」
 頭の甥を騙るとは許せねえ・・・。仁吉は、吉次郎に対して今まで押えていた怒りが、腹の底からブクブクと沸くのを感じた。
「表沙汰にはできぬが、あたしは頭の娘。素性の知れぬ吉次郎など、頭の跡目を継ぐ立場にない・・・」
「ならば・・・」
 仁吉が思案顔になった。お藤は仁吉に頷いて静かに言った。
「吉次郎の申出を受入れて、折をみてからにしましょう」
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