十六 抜擢

文字数 1,360文字

 その後、何事も起こらずに、剣術試合の日が到来した。
 江戸城郭内に入れるのは試合に出る剣客のみである。徳三郎、あかね、藤兵衛、正太は日野道場に留まった。

 昼四ツ(午前十時 巳ノ刻)前。
 唐十郎、穣之介、坂本右近は江戸城郭内に入った。集まった剣客は百名ほどになった。

 昼四ツ(午前十時 巳ノ刻)正刻。
 (たすき)鉢巻(はちまき)、袴の股立(ももだち)を取った唐十郎は木太刀を携えて、席に着いている幕閣と柳生宗在剣術指南役に御辞儀し、会場の中央へ進んだ。相手の剣客も唐十郎同様、一同に一礼して、会場の中央へ進んでくる。
 柳生宗在の采配で二人は正対して蹲踞(そんきょ)し、木太刀を正面に構えて立ちあがり、(きっさき)を合せて対峙する。
「はじめ!」
 号令とともに、相手は、唐十郎が退くとみて、一歩退いた。
 だが、すっと、唐十郎は相手の懐に入るように動いて、鋒を相手の喉元に触れた。
 幕閣たちは、唐十郎がふらふらと相手にもたれるように進んだと思った。足下の何かにつまづいて、偶然、鋒が相手の喉元に触れたように、頼りなく見えた。
 相手が木太刀を引いた。
「まいりました・・・」
 相手は幕閣と柳生宗在に一礼して、その場を去った。
 唐十郎も一同に御辞儀して退場した。

 (せん)(せん)をいとも容易く行うこの男、いったい、何者か・・・。
 柳生宗在は唐十郎の後ろ姿を見送った。

 武芸者の心と体の動きは、動作を意識して、準備し、行動する、の三段階である。先の先は、相手が動作を意識した段階で相手の意を読み、相手よりいち早く行動するのである。つまり、先の先を行う武芸者は、相手が動作を意識すると同時に行動し、三段階の動きがない。
 顔には出さぬが、一介の浪人風情にこのような達人がいる事に、柳生宗在は驚いた。
 柳生宗在は試合に出る剣客たちの名も素性も知らない。知ろうとも思わなかった。その方が勝負の検分に私情が入らずに公平が保てるからだ。次の試合に備えて、柳生宗在は疑問を心からかき消した。

 穣之介の試合は、『はじめ』の号令とともに、相手の木太刀が穣之介の木太刀に巻き取られたようにして宙へ飛んだ。
 坂本右近は相手の木太刀を峰で弾き、一瞬に胴を薙いだ。
 日野道場の三人が剣客たちと木太刀を交えるのは一瞬だった。瞬時に勝負が決まり、三人は次々に相手を討って決勝戦へ進んだ。

「三人とも達人の域に思う。三人を剣術指南役補佐に召し抱えては如何か」
 大老堀田正俊は柳生宗在にそう言った。
「私もそのように思っておりました。皆様の賛同を得て、そのようにいたしたいと存じます」
 柳生宗在も堀田正俊の考えと同じだ。
「みな、良いであろうか」と堀田正俊。
「良きかと」
 大老堀田正俊の意見に幕閣は皆が賛同した。若年寄稲葉正休はにべもない。その場で書状がしたためられて、日野穣之介、日野唐十郎、坂本右近の剣術指南役補佐が決まった。
 とは言え、三人が城内へ出仕するのではない。柳生宗在剣術指南役に召し抱えられて、幕閣を務める大名の屋敷や旗本に剣術を指南するのだが、これは建前に過ぎない。
 本音は勘定吟味役直属の特使探索方である。それを知るのは唐十郎たちを除けば、大老堀田正俊と勘定吟味役荻原重秀、そして柳生宗在剣術指南役だけである。

 その頃、町奉行所は、日野徳三郎からの要請を認めて、藤兵衛と正太を特使探索方の配下にする事を正式に認めた。
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