四 日野道場

文字数 2,253文字

 長月(九月)下旬。
 浅草熱田明神そばの日野道場は、神田横大工町から歩けば半時余りである。
 今日は諸大名の出稽古がなく、唐十郎は早朝から日野道場に居た。

 彼岸も過ぎて、朝晩、寒さを感じるようになった。そう思いながら、唐十郎は道場を掃いて拭き清め、道場の外へ出た。庭を掃き、ヤツデや柘など庭木の葉の埃をひしゃくの水で流し清める頃には諸事の雑念が消えた。

 唐十郎は門の傍にたたずんで庭全体に気をくばり、目を閉じた。
 亀甲屋への懸念が遠のいて、道場の人の気配や、道場周囲に繁茂する庭の木々の生命力が感じられる。その中に、道場の入口に近づくあかねの気配がある。
 唐十郎は、庭の植え込みからこぼれるように咲いている萩の花を避けながら、静かに門の外へ出て、早朝の熱田明神へ歩いた。
 あかねを避けているのではなかった。唐十郎は、独り静かに時の流れを読め、と森羅万象の定めが伝えているように思えてならなかった。

 大老堀田正俊が亡くなってまもなくひと月になる。すでに堀田正俊の子息正仲が、堀田正俊を殺害した若年寄稲葉正休を城内で討って仇討ちした。堀田正俊殺害は私怨の刃傷沙汰と言われているが、堀田正俊を排斥する勢力が稲葉正休を動かしたのはまちがいなかった。
 この事実が明るみに出る前に、父堀田正俊の仇討ちをした堀田正仲は、堀田家の家督を継ぎ次第、移封される・・・。

「唐十郎様、朝餉にしませぬか」
 熱田明神境内に小さくあかねの声が響いた。
「すまぬ。義父上の事を考えていた」
 歩み寄るあかねに、唐十郎はそれしか言えなかった。
「唐十郎様に思われて、義父も喜んでおいででしょう」
 あかねは唐十郎に微笑んだ。唐十郎はあかねの微笑みに感謝と深い悲しみを感じた。
 あかねは義父が亡くなっても取り乱さなかった。忍びとして人の死を間近に見てきた事があかねをそうさせていた。しかし、日を経るにつれて義父との暮らしが思いだされ、あかねの心は変っていた。短い縁であれ、義父堀田正俊は天涯孤独な忍びのあかねに夫を授け、親族を授け、知古の者たちを授けた。あかねは義父に深く感謝して、亡くなった事を深く悲しんでいた。

「義父上はあかねの思いを察している」
 あかねはそっと袂で両の目尻を押さえ、唐十郎の手を握った。
「そうですね」
「朝餉にしよう」
「はい!」
 唐十郎はあかねの手を取って熱田明神の境内から日野道場へ歩いた。


 朝餉の膳を前に、
「今日は道場の稽古だけゆえ、ゆっくり出かけてくればいいものを、唐十郎が早朝から拭き掃除やら外の掃き掃除をしておっては、おちおち寝ておられぬぞ」
 そう言う穣之介が高笑いしている。日野徳三郎夫妻と従兄の穣之介夫妻、そして唐十郎とあかね、六人のにぎやかな朝餉である。

 朝餉がすんで、門下生が道場に現れた。
 唐十郎は入門まもない門下生に、基本の型を地道に教えた。何事も見て習えである。口で説明するより、動作は遅くとも実際の動きを目の当たりにすれば早く憶える。
 身体が憶えるまで何度も型をくりかえして、そのつど動きを早めてゆく。すると、相手の動きに呼応して、己が考える以前に身体が反応し、相手の虚を突く事になる。先の先とはゆかぬものの、それに近い動きが鍛錬によって可能ならしめる。
 とは言うものの、先の先は達人の域であり、天賦の才に寄るところが大である。そうわかっているが、唐十郎は、思わぬ拾いものがあるやも知れぬと思いながら、入門から日が浅い門下生に、基本の型を教えている。

 稽古の休憩どき。
「若先生、オラでも強くなれるか」
 入門したばかりの六助が唐十郎に尋ねた。
「早く動けるようになれば強くなれる。動作をくりかえして、身体で型を憶えねばならぬ」
 唐十郎は、六助だけでなく、入門したての門下生に聞えるように説明した。皆、納得したが、六助だけが、何か気がかりな様子だ。
「どうした、六助?」
「オラ、力はあるが、早くは動けねえ。だから車を引いてる。
 いつも手間賃を、御店の奴らに取られちまう・・・。
 取られねえように強くなりてえ・・・」
 六助の身の丈は六尺に近い。動きは鈍いが気は優しくて力持ちである。唐十郎は六助が入門した時を思いだした。

 六助はわずかばかりの給金の中から銭を工面して、これで剣術を教えてくれと頼みこんできた。銭が足りなければ掃除でも薪割りでもなんでもすると言う。なぜ剣術を習いたいか訊いても何も言わずに、教えてくれの一点張りだった。唐十郎はそれ以上訊かずに、基本の型から教えた。


「六助は車引きか」
「運脚もする。奉公先は亀甲屋だぞ」
「ならば、実入りは悪くなかろう」
「雇い主の大店から出る手間賃の三割を、口利き料だ、と亀甲屋の御店がかすめ取る。
 おまけに、御店の奉公人の奴らが、寄ってたかってかすめ取る。
 オラの手元に残る手間賃は半分になっちまう。
 何としても、奉公人をとっちめて、手間賃を守らねばなんねえ!」
 いつもは無口な六助が立て板に水の如く言ってのけた。よほど腹に据えかねたものがあるのだろう。

「車は誰の持ち物だ?」
「亀甲屋の御店だが、なにかあったら、オラは雇い主の大店に奉公している車引きだと言え、と言われてる」
「なにかとは、何んだ?」
「車引きどうしの喧嘩とか、騒動だ」
「怪我人だけでなく、車も壊れるな」
「そうだ・・・。御店が取る三割に、車の借り賃と損料も入ってたな・・・」
 六助は思いだしたようにそう言った。
「では、強くならねばならぬな」
「はい、若先生っ」
 休憩どきを終えて、六助はふたたび型の稽古に励んだ。
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