十四 肥樽

文字数 5,382文字

 その頃。
 五人の浪人が肥問屋吉田屋に現れた。
「廻船問屋吉田屋の使いの者だ。先に来ている三人を待つ。酒肴を頼むっ」
 浪人たちは肥問屋吉田屋に上がりこんで、お藤に酒肴を用意させてくつろいでいる。

 お藤は浪人たちを警戒した。
 今朝、藤兵衛たちが店を去ったあと、吉田屋吉次郎から連絡があったとおり、身なりを整えた三人の浪人が現れて仁吉とともに弥助の葬儀に同行した。
 弥助の死は昨日のうちに、手代の与平が廻船問屋吉田屋へ知らせている。吉次郎からの連絡のとおりに、弥助の葬儀に出る仁吉の警護を名目に、浪人三人が駆けつけたとなれば、浪人三人の意図は明らかだ。仁吉もその事をわかっている。そして、その意図を裏づけるように、こうしてさらに浪人五人が現れた。

 吉次郎は浪人たちを使って村の世話人と仁吉を始末して村人たちを脅し、隅田村と若宮村の肥商いの縄張りを独占して、さらに堀切村や寺島村など周辺の村の縄張りも独占するために、あたしを始末して香具師の元締の座を固める気だ・・・。
 そうはさせてなるものかっ。こやつらの戦意を少しでも減らして、あとは石田さんたちに任せればよい・・・。
 お藤はかねてから手に入れていた眠り薬を、浪人たちの酒に仕込んだ。


 肥問屋吉田屋で、浪人たちが酒を酌み交している頃。
 捕縛された与平と三人の浪人が隅田村の道を村人たちに追い立てられて、堀切橋近くの古隅田川河畔にある畑に現れた。畑には部切船で運んだ下肥を溜めておく直径一間半、深さ二間の大樽が八個、地面に埋めこまれている。味噌や酒を仕込む大樽と同じだ。

「ほれ、一人ずつ、入りな・・・」
 藤兵衛と村人たちは、捕縛したままの与平と三人の浪人を一人ずつ肥樽に蹴落とした。左利きの浪人の折れた左腕には添木がしてある。
 直径一間半、深さ二間の肥樽は下肥が五尺半ほど溜まっている。独りでは樽から出られない。
「この時期、野良仕事が始って、下肥も少ねえ。よかったってもんよな・・・。
 誰に殺しを頼まれたか、話したくなったら綱を引きな。鈴が鳴るようになってる」
 藤兵衛は肥樽に丈夫な麻紐を垂れて、雨風をしのぐ屋根を肥樽にかけた。

「さあ、みんなは弥助さんの葬儀に戻ってくれ」
 藤兵衛は村人たちにそう言った。藤兵衛の一言で村人たちは弥助の家へ戻っていった。
「太吉さん、すまねえ。弥助さんの葬儀っだていうに、とんだ手間をかけちまった」
 肥樽の番小屋で藤兵衛は太吉に詫びた。
「いえ、こうして下手人を捕まえて、弥助さんには何よりの供養です。
 あとは黒幕を・・・」

「しっ・・・」
 藤兵衛が太吉の言葉を制して耳を澄ませた。畑の向こうに白鬚社へ行く街道があり、その街道を隔てて肥問屋吉田屋がある。そこから、明らかに町人とは口調が異なる酔漢の声がする。侍だ。しかも浪人だ・・・。
「太吉さん、唐十郎様に知らせてくれっ。あいつらの仲間が吉田屋に居るっ」
 藤兵衛は肥樽を目で示した。唐十郎たちは弥助の家を警護している。
「奴らに気づかれませんか」
 太吉は肥樽の中にいる浪人たちを気にした。
「なあに、樽の中は外の音が聞えねえもんさっ。
 さっ、早く伝えてくれっ」
「はいっ」
 太吉はその場から走り去った。


 しばらくすると、唐十郎が石田たちを伴って、藤兵衛がいる番小屋に走ってきた。
「まもなく、お斎が終る」
 そう話しているあいだに、昼九つ(正午)の鐘が鳴った。その鐘を待っていたように、肥問屋吉田屋から浪人たちが出てきて白鬚社への街道を歩きだした。

「唐十郎様。どうなさるんですか。このまま奴らが弥助さんの家へ行ったら・・・」
「しからば、石田さんっ。頼みますっ」
 唐十郎は石田たちとともに番小屋を出た。小走りに畑の道を街道へ歩いて、肥問屋吉田屋を出た五人の浪人たちを追うと、浪人たちを追い越して前に立ち、捕縛した浪人たちの刀を五人の浪人に手渡した。同時に、五人の浪人が抜刀した。しかし、お藤が酒に仕込んだ眠り薬が効いて、浪人たちはふらついている。
 斬り合いになるっと藤兵衛が思っていると、石田たち三人と唐十郎は一瞬に五人の浪人を峰打ちして捕縛し、畑の肥樽の前へ引っ立てた。

「さあ、吐いちまいなっ。弥助さんを殺ったのはこいつかっ。誰に頼まれたっ」
 藤兵衛は、肥樽の中にいる左腕が折れた浪人を示して、肥問屋吉田屋からでてきた浪人の一人に訊いた。この者は肥問屋吉田屋を出た時から他の者に目配せして指示していた。
「・・・・」
 浪人は何も答えない。
「叩き込めっ」
 唐十郎の指示で、捕縛されたまま浪人たちが肥樽の中に叩き込まれた。肥樽は全部で八つある。一樽に、捕縛された浪人が一人ずつ入っている。与平は浪人の一人ととともにいる。

 それからしばらくすると、白鬚社の街道から、正太が与力の藤堂八郎を伴って現れた。藤堂八郎の背後には同心岡野と松原、配下の岡っ引きと下っ引き、そして十名ほどの捕方がいる。
「連絡、ご苦労であった。弥助さんの葬儀で、列席者を殺害しようとした者は何処だ?」
「はい、ここに・・・」と藤兵衛。
 藤兵衛が示した肥樽に左手首を折られた浪人がいる。
「まだ口を割らぬのか」
「はい」
「手首が折れていると言ったな。誰が添木をしたのか」
「唐十郎様がしました」
 唐十郎は日野道場の稽古で、怪我人の手当に慣れている。

「まあ、良かろう。一晩ここに居れば、左手首は壊死して切り跳ばすことになろう。
 早く吐けばいいものを・・・。
 こやつらが口を割りたくなったら、どうやって知らせるのか」
「へい。この紐を引いて・・・」
 藤兵衛は肥樽に垂らした麻紐を示した。
「では、今宵はここに泊ってもらうか。蓋をしろっ」
 藤堂八郎の指示で、肥樽に覆いがされた。


「唐十郎さん。
 同心と辻売りたちが、浪人たちが肥問屋吉田屋へ向った、と探りの結果を知らせて、正太が・・・」

 朝、新大坂町のお堀端にある廻船問屋、吉田屋吉次郎を探っていた同心と辻売りたちが藤堂八郎に、浪人三人が弥助の葬儀に出る肥問屋吉田屋の大番頭を警護するとの名目で肥問屋吉田屋へ向った、と知らせた。お藤と仁吉を始末する目的は明白だ。
 藤堂八郎が捕方を集めていると、その後の探りで、さらに五人の浪人が千住大橋を渡って鐘淵橋から肥問屋吉田屋へ向った、と知らせがあり、そして、昼過ぎには正太が、仁吉を警護している左利きの浪人が藤兵衛に斬りつけたからを捕縛した、と知らせた。

 唐十郎は説明する。
 吉次郎は今後、刺客の浪人たちをさし向けて、捕縛された浪人たちを始末し、
『弥助を殺害したのも、太吉を殺害しようと浪人をさし向けたのも、捕縛した浪人たちの口を封じたのも、肥商いの縄張りを荒した者を懲らしめようとした肥問屋吉田屋の仁吉だ』と言うだろう。

「では、奴らは口を封じられるのか」
 藤堂八郎は、覆いがかかった肥樽を目で示した。
「おそらく、捕縛されても助けに行くから口を割るな、と言い含められているでしょう」
「この肥溜めに置くより、茅場町の大番屋へしょっ引くほうが、奴らは安全だな」
 藤堂八郎は覆いがかかった肥樽を目で示した。九人の咎人を大伝馬町の自身番で詮議するには多過ぎる。

 したたかな吉次郎のことだ。肥問屋吉田屋を探っているのは与平一人だけではないだろう。そう思いながら唐十郎は藤堂八郎に提案する。
「では、策を講じましょう。肥問屋吉田屋には、与平の他にも吉次郎の手下が潜伏しているはずです。その者の前で、
『明日早朝、浪人たちを舟で茅場町の大番屋へ移送する』
 と話すのです。事が伝われば、吉次郎が浪人たちの口封じに動くはずです」
「うむ、騒ぎを起こすとなれば、この隅田村の堤の道か。はたまた舟でか。
 まさかこの肥樽ではあるまい」
「それは、わかりません」

「唐十郎様。仁吉さんが戻ってきましたぜ」
 隅田村の道を弥助の家の方角から、肥問屋吉田屋へ戻ってくる仁吉が見える。
 まもなく仁吉は隅田村の道から街道へと歩みを変えて、肥問屋吉田屋へ戻るだろう。
「藤兵衛。
『浪人たちは全員捕縛したゆえ、明日早朝、浪人たちを舟で茅場町の大番屋へ移送する』
 と奉公人たちの前で、仁吉さんとお藤さんに伝えてくれっ・・・」
「わかりましたっ」
 藤兵衛はその場を去って、小走りに畑の道を肥問屋吉田屋の前の街道へ向った。街道へ出た藤兵衛は、戻ってきた仁吉に声をかけて、仁吉とともに肥問屋吉田屋に入った。


 しばらくすると、肥問屋吉田屋の裏手から、手代の勘助が走りでた。隅田村を通らずに鐘ヶ淵の堤の道へ走って行った。

「吉次郎の手の者が事を伝えに走った。吉次郎は明朝、刺客を送りこむはず。
 藤堂様。今から、浪人たちを茅場町の大番屋へ移送しましょう」
「やはり、そうであったか。
 まだ、昼九ツ半(午後一時)を過ぎたばかりゆえ、移送せぬのは妙だと思っていた。
 春とは言え、まだ冷える。ここで肥樽の寝ずの番は身に応えるというもの。
 皆の者っ。梯子をかけて、こやつらを肥樽から出せっ。川に浸けてやれっ」
 藤堂八郎の指示で、岡っ引きや捕方は、捕縛している浪人たちを肥樽から引き出して、古隅田川で身を清めさせた。浪人たちは冷えて震えている。

「吉次郎は下肥商いの縄張りに言いがかりをつけて、肥問屋吉田屋の仁吉とお藤を始末し、藤五郎の跡目として香具師の元締の立場を固める気でしょう・・・」
 吉次郎は、汚れ仕事全てを人に命じてやらせ、己は何もせずにいる。吉次郎のような姑息な男は、それ相応の咎を受けねばならぬ・・・。
 唐十郎の腹の内で怒りが燃えあがっていた。

 吉田屋吉次郎は裏社会で藤五郎の甥を騙り、藤五郎の跡目として香具師の元締を継いでいる。吉次郎にとって、実の相続権を持っている藤五郎の養女お藤と亭主の仁吉はじゃま者でしかない。
 咎は連帯責任が原則だ。吉次郎が香具師の元締だった藤五郎の甥であれば、亀甲屋の奉公人同様、江戸所払いになっていたはずだが、吉次郎は藤五郎の身内ではないために商いを続けて、弥助殺害の事件前の弥生半ばには、町奉行所が競売にかけた、かつての亀甲屋の店の借家権を手に入れている。

「盗っ人猛々しいとはこの事だな・・・」
 吉次郎に対する怒りは、藤堂八郎も唐十郎と同じだった。
 明朝は刺客たちの捕物になる。なんとしても町方に怪我人を出したくない・・・。藤堂八郎は、明朝の刺客たちの朝駆けに、どう対処するか考えつかずにいた。

「実は・・・」
 唐十郎は、肥問屋吉田屋から戻った藤兵衛に事の成り行きを説明して、藤堂八郎たち町方と正太に、吉次郎が放つであろう明朝の刺客を、如何にして捕縛するか、妙案を説明した。肥問屋吉田屋の大番頭の仁吉とお藤にも手伝ってもらわなければならない。

 捕縛の策を聞くと、
「捕縛の妙案、刺客も、おったまげますぜっ。あっはっはっ。
 おっと、すいませんっ」
 藤兵衛は腹を抱えて大笑いしそうになったが、じっとこらえた。そばにいる正太も、藤堂八郎も、クククッと笑いをこらえている。

「では、あっしは、もう一度、仁吉さんとお藤さんに会って、二人が手伝うように捕縛の策を伝えてきやすよ。内密な策だから、今度は人払いして、二人だけに伝えます」
 正太はここで皆の指示に従ってくれ」
 そう言って藤兵衛は畑の道を肥問屋吉田屋へ走っていった。

「これから、私たちは捕えた浪人らを茅場町の大番屋へ移送する。
 正太は、何度も使いを頼んですまぬが、途中、橋場で舟を下りて、この事を伯父上に知らせてくれ。そして、私の長屋に戻っていてくれ」
 唐十郎は正太にそう告げた
「はい、承知しました」
 正太は納得していた。
「吉次郎が今夜にも刺客を放って奴らを救い、仁吉と太吉を殺害するとは考えられないか」
 藤堂八郎が、吉次郎の刺客が夜討ちするのではないかと案じている。

「吉次郎は肥問屋吉田屋に潜入していた手下から、今宵は、町方と私たちが捕えた奴らを見張って仁吉さんと太吉さんを警護している、と聞いているでしょう。
 よって、吉次郎が放つ刺客は朝駆けするはずです。念のため、石田さんたちに肥問屋吉田屋と太吉さんを警護してもらいましょう。
 石田さん。お願いできますか。奴らを茅場町の大番屋へ移送したら、肥問屋吉田屋と太吉さんを警護してください」
 唐十郎はその場にいる石田たちに頭を下げた。藤堂八郎も同じようは頭を下げている。
「わかりました。警護します」
 石田たちは村人たちに恩義がある。このような時しか、村人たちに恩返しができないと思っている。
 そうこうするうちに藤兵衛が戻ってきて、二人とも快く了承しました、と言った。

 捕縛されたまま古隅田川で下肥を洗い流した浪人たちは、二人ずつ四艘の舟に分乗した。それぞれの舟には唐十郎と石田、藤堂八郎と石田の仲間、同心の岡野智永と石田の仲間、同心の松原源太郎と藤兵衛が乗っている。正太と岡っ引きや捕方たちは、他の舟に乗った。
「出してくれ」
 藤堂八郎の指示で、舟は茅場町の大番屋を目指して大川を下った。


「これで、弥助さんを斬殺した奴は死罪だ。勘助は戻るまい・・・」
 仁吉は肥問屋吉田屋の店先から堀切橋近くの船着場を見た。手代の勘助が戻らなければ、吉次郎が刺客を放つのは明らかになる・・・。
「お前さん。お茶をいれるよ。奥へ・・・」
 お藤は仁吉の耳元で、明朝に備えて打合せしましょう、と囁いた。
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