八 検視 その一

文字数 2,529文字

 翌年、弥生(三月)二十五日。
 明け六ツ(午前六時)、晴れの早朝。
「日野先生っ。古隅田川の堀切橋南詰めに、弥助の斬殺死体があがったっ」
 与力の藤堂八郎が、同心たちと駕籠に乗った神田佐久間町の町医者竹原松月と、藤兵衛と正太を引き連れて、浅草熱田明神そばの日野道場に駆けつけた。
 斬殺された弥助は、隅田村の百姓を代表している世話人で、肥問屋吉田屋の肥売捌人の大番頭の仁吉と、肥商いの値段交渉をしている百姓だ。

「篠っ。皆の握り飯を作って藤兵衛と正太に持たせろっ」
 徳三郎は妻の篠に言った。まだ朝餉前の刻限である。
「唐十郎。儂とともに参れ。
 穣之介。坂本右近とともに野道場を頼む」
 徳三郎は、早朝から日野道場に詰めている唐十郎と子息の穣之介に命じ、唐十郎とともに身支度して、与力の藤堂八郎たちと道場を出た。
 浅草熱田明神そばの日野道場から橋場町の百姓渡しを使って大川を東岸の隅田村へ渡り、堤の街道を木母寺(もくぼじ)の北で分れて白鬚社(しらひげしゃ)の街道を通って堀切橋へ行くのに小半時もかからない。


 小半時後。
 古隅田川の堀切橋の南詰めで、町医者竹原松月と徳三郎は弥助を検視した。
 弥助の背中に心臓に達する刺し傷があり、身体の正面には右肩から左胸に達する斬傷がある。
「致命傷はこれですな」
 竹原松月は徳三郎に、弥助の背中にある刺し傷を示した。
「前から斬られて、後ろから刺され、橋から転落した」
 徳三郎は刺し傷から死因を判定している。

 堀切橋中ほどの東の欄干そばに燃えつきた提灯があり、二ヶ所に血溜りが残っている。
 血潮の飛沫を考慮すると、弥助を殺害した下手人は二人だ。一人が、堀切村から隅田村へと橋を渡ってくる弥助の正面を、右肩から左脇腹にかけて袈裟懸けに斬り、もう一人が背後から弥助の背を心臓まで一突きした。そう推察しながら唐十郎は違和感を覚えた。
 右半身に構えて袈裟懸けに斬るなら、相手の左肩から右脇腹に斬る。弥助が刀を持って応戦したとは思えない。この弥助の刀傷は不可解だ・・・。
「伯父上。この胸の傷、如何に思うか」
「左半身に構えて斬ったのだ」
 左手を上に右手を下にして刀の(つか)を握り、左半身に構えて弥助を斬った。伯父上はそう考えている。これは剣の流儀に反している・・・。徳三郎の返答からそう思う唐十郎に、泣きながら同心の松原源太郎と話す女の声が聞えた。

 弥助の遺体から離れた人垣で、同心松原源太郎と岡っ引きが藤兵衛と正太を交えて、女から話を聞いている。女は弥助の女房で、おみの、といった。おみのはむせび泣いている。

「ゆんベは若宮村の太吉さんに会うと言って夕方に出かけました・・・。
 もしかしたら、向こうに泊めてもらうと言ってたから、帰りが遅かったんで、飲んで泊ったと思ってました・・・・。それなのに、方向違いのこんな所で・・・」
「おみのさん。若宮村の太吉さんはここに来てますか」
 松原源太郎がおみのに訊いた。
「はい、ここにいます」
 人垣の中から、四十がらみの男が現れた。若宮村の太吉である。亡くなった弥助はこの太吉より若い。
「ゆんべ、弥助さんは、俺の家に来なかったし、会う約束もしていなかった」
 太吉はそう言った。

「おみのさん。昨日、誰かが弥助さんに会い来ませんでしたか」
「誰も来てません・・・」
「日頃、橋向こうの堀切村へ行くことがありましたか」
「堀切村へはあまり行ったことがないです。
 そこの吉田屋の大番頭の仁吉さんに会いに行くくらいでした・・・」
 おみのはふりかえって肥問屋吉田屋を指さした。

「仁吉さんは大番頭ですか・・・」
「へえ、仁吉さんは大番頭です」
 松原源太郎の問いに、太吉がそう答えた。吉田屋吉次郎は、今年の正月から肥問屋吉田屋を亀甲屋の元手代だった仁吉に任せて、廻船問屋吉田屋とは別商いをさせている。その時から仁吉は大番頭を務めている。太吉はそう話した。

「では、最近はどうですか。どこかに出かけたり、誰かが訪ねてくる事はありましたか」
 松原源太郎はおみのに優しく訊いている。
 松原の所作は与力の藤堂八郎に似ている。事件関係者と穏やかに接する(すべ)は与力の藤堂八郎の調べから学んだのだろう・・・。藤兵衛はそう思った。

「村の衆が寄合に来るくらいでした」とおみの。
「寄合で、弥助さんは何を話しましたか」
「作付けする作物のことばかりでした。肥料に何がいるだの、種をどうするだのと」
「何かこまっているとか、誰かがこまっているとか聞きませんでしたか」
「下肥が値上りしそうだと心配してました」
「どういうことですか」

「以前は、村の衆が江戸へ行って、金子をもらって下肥を引取ってきたんですよ。
 そのうち、下肥が良い肥料とわかって、廻船問屋が手をまわして、村々の川岸に廻船問屋の出店や、肥問屋ができたんです。
 そして、肥問屋は部切船を使って下肥を運んできて、百姓に高値で商うようになったんですよ」
 おみのがそう言った。

 このところ肥料は下肥だけでなく全てが値上りしている。
 天下普請のために江戸市中の職人や人足が増えた。それにともなって多くの作物が江戸市中へ商われるため、田畑の作付けが増えて、その分、地味が減り、たくさんの肥料を田畑に撒くようになった。
 ところが、廻船問屋や肥問屋は多くの肥料を商えると知るや、肥料を値上げするため、百姓の世話人をしている弥助は、いつも廻船問屋や肥問屋の肥売捌人と値段交渉していて気の休まる日がなかった、とおみのは話した。


「弥助さんは隅田村を代表している世話人だ。人望もある。何かの悪事に荷担していたとは思えないし、恨みをかっていたとも思えない。辻斬りであろうか・・・」
 検視に立ちあう与力の藤堂八郎は、おみのの話に耳を傾けながら、唐十郎だけに聞える小さな声でそう呟いた。

 藤兵衛が唐十郎と藤堂八郎の近くに来て囁いた。
「唐十郎様。藤堂様。あっしは肥問屋の吉田屋へ聞きこみに行ってきます・・・」
 唐十郎は小さく頷いて、藤堂八郎に目で同心の岡野智永を示した。
 藤堂八郎は唐十郎の意を汲み、ただちに同心の岡野智永に指示した。
「岡野。こちらは任せて同道しろ」
「わかりました」
 藤兵衛と正太は、同心の岡野智永と下っ引きの留造とともに、河畔にそった街道を肥問屋吉田屋へ歩いた。
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