十一 先の先
文字数 2,096文字
長月（九月）六日。
今日は幕臣などへの出稽古はない。唐十郎はあかねとともに、朝から日野道場にいる。
昼九ツ（午前十二時）前
日野道場の稽古が終った。
唐十郎は日野道場の中庭へ行って、井戸端で手桶に水を汲んで手拭いを浸して絞り、稽古着を諸肌を脱いで手拭いで汗を拭いた。
「あなたっ。唐十郎様。伯父上がお呼びです。道場へ来るようにと・・・」
あかねが母屋から渡り廊下を小走りに来て、徳三郎からの伝言を伝えた。
唐十郎は稽古着を整えて、道場に戻った。稽古はすんだため道場には誰もいない。
徳三郎が左手に木太刀を持って現れた。右手に箸を持っている。
「ひとつ、手合せをしよう・・・」
「はい」
唐十郎は木太刀を取るために、道場の壁にある木太刀掛けへ行こうとした。
「木太刀は要らぬ。お前はこれを使え」
徳三郎は右手の箸を唐十郎に見せた。
唐十郎は黙って箸を受けとった。徳三郎は唐十郎をその場に立たせて小太刀を握った左手を左腰に添えた。
「さあ、この状態から勝負だ。気を抜くな・・・」
と徳三郎が言うと同時に、箸を持った唐十郎が徳三郎の目の前に居た。唐十郎の持つ箸は徳三郎の頸動脈がある首筋に当っている。これでは徳三郎は小太刀の柄に右手を添えられない。
「見事だ・・・」
「はい」
「いつから、このようになった」
徳三郎は唐十郎の前から退いた。背筋にびっしりと冷汗をかいている。唐十郎に殺気を感じたのではない。その逆で、何も感じないのだ。唐十郎が手にした箸の一突きで頸動脈から血が噴きだし、徳三郎は確実に命を落していたはずだ。その理由がわかれば、これほどの恐怖はない。
「はい。あかねを妻にしてからだと思います」
唐十郎は右手に持った箸を見た。唐十郎の箸だった。昼餉だな、と思った。
「さて、昼餉にしよう。
出稽古の際、剣術指南役柳生宗在様から、何か指示はあるか」
徳三郎は道場から母屋へ向う戸口へ歩いてそう訊いた。
「最初の出稽古の際に、稽古先の幕閣の屋敷を指示されただけで、その後は何も指示されません。何か指示があるときは、と言っても出稽古先の変更や出稽古の刻限変更だけですが、その日の出稽古先に、事前に、剣術指南役から連絡があるだけです」
「そうか・・・」
「ところで、伯父上。何か、用があったのではないのですか」
唐十郎は、伯父上はなんで私を呼んだのかと思った。先 の先 など、今に限ったことではない。これまで何度となく鍛錬している。その事は伯父上も承知のはず。穣之介も坂本右近も、私と同様に、先の先を苦もなくこなす・・・。
「昨夜、両国橋西詰めで、三人の武家らしき男が刺殺された件の下手人は、先の先を行う手練だ・・・」
「ああ、それで私を確かめた・・・」
「三人は刀の柄を握ったまま仏になっていた。三人は辻斬りだ」
唐十郎は三人を手にかけていない、と徳三郎は思った。唐十郎が下手人なら、三人は柄を握ることもできなかったろう・・・。
「下手人の目星はついたのですか」
「下手人はわからん」
「辻斬りは何者ですか」
「今、町方が三人の身元を探っている。三人は、水戸徳川家上屋敷の外出宿泊手形を持っておった。町方が手形持参で事件を水戸徳川家上屋敷へ伝えたら、上屋敷留守居役が馬で駆けつけて、足軽頭が仏の男三人を手引きして水戸徳川家上屋敷に盗みに入った折に、紋付羽織袴などとともに盗まれた手形で、三人が仏となった件は水戸徳川家とは無関係だ、と説明した」
「もしやして、水戸徳川家上屋敷留守居役は後藤織部様ではありませぬか」
「いかにも、後藤織部様じゃ。唐十郎は知っているのか」
「はい、出稽古の折に世話になっています。後藤織部様には子息の後藤伊織がいて、これが剣の筋は良いのですが・・・」
「その者は嫡男か」
「はい。男子はその者のみです」
「留守居役の仕事に興味が無いのが、唐十郎の口ぶりでわかったぞ。
上屋敷におらぬのだな」
「はい。下屋敷の留守居を命じられて下屋敷の警護にあたっていますが、頼まれると断りずらいようで、下屋敷の中間部屋を賭場に使わせているようです」
「困り者だな。さては、上屋敷の外出宿泊手形と紋付羽織袴の盗みに、後藤織部の嫡男が関係していたと言うことか。そうなると、刺客の三人とも関係していることになる・・・」
「後藤伊織が盗みに荷担しているとは思われませぬ。ぐうたらですが、いたって生真面目な男です」
「盗みを働くほどの悪人ではないが、博打好きか・・・」
「はい。酒も好みます。
ところで、辻斬りに遭った者たちはどういう者たちですか」
「皆、藤五郎と親しかった者たちだ。香具師仲間でない。今、与五郎たちが探っている」
「刺客は藤五郎と親しかった者たちを始末して、さらに、藤五郎一味を始末しようとしているのですね」
「おそらくそうだろう」
「縄張り争いですか・・・」
唐十郎は徳三郎が勘定吟味役荻原重秀と交した密約を思いだした。
伯父上の推察どおりになってきた・・・。刺客を雇ったのは吉次郎の残党の福助一味だろう。今宵、あかねとともに、水戸徳川家下屋敷と福助一味に探りをかけよう・・・。
唐十郎の妻のあかねは、今は亡き大老堀田正俊の養女で忍びだ。
今日は幕臣などへの出稽古はない。唐十郎はあかねとともに、朝から日野道場にいる。
昼九ツ（午前十二時）前
日野道場の稽古が終った。
唐十郎は日野道場の中庭へ行って、井戸端で手桶に水を汲んで手拭いを浸して絞り、稽古着を諸肌を脱いで手拭いで汗を拭いた。
「あなたっ。唐十郎様。伯父上がお呼びです。道場へ来るようにと・・・」
あかねが母屋から渡り廊下を小走りに来て、徳三郎からの伝言を伝えた。
唐十郎は稽古着を整えて、道場に戻った。稽古はすんだため道場には誰もいない。
徳三郎が左手に木太刀を持って現れた。右手に箸を持っている。
「ひとつ、手合せをしよう・・・」
「はい」
唐十郎は木太刀を取るために、道場の壁にある木太刀掛けへ行こうとした。
「木太刀は要らぬ。お前はこれを使え」
徳三郎は右手の箸を唐十郎に見せた。
唐十郎は黙って箸を受けとった。徳三郎は唐十郎をその場に立たせて小太刀を握った左手を左腰に添えた。
「さあ、この状態から勝負だ。気を抜くな・・・」
と徳三郎が言うと同時に、箸を持った唐十郎が徳三郎の目の前に居た。唐十郎の持つ箸は徳三郎の頸動脈がある首筋に当っている。これでは徳三郎は小太刀の柄に右手を添えられない。
「見事だ・・・」
「はい」
「いつから、このようになった」
徳三郎は唐十郎の前から退いた。背筋にびっしりと冷汗をかいている。唐十郎に殺気を感じたのではない。その逆で、何も感じないのだ。唐十郎が手にした箸の一突きで頸動脈から血が噴きだし、徳三郎は確実に命を落していたはずだ。その理由がわかれば、これほどの恐怖はない。
「はい。あかねを妻にしてからだと思います」
唐十郎は右手に持った箸を見た。唐十郎の箸だった。昼餉だな、と思った。
「さて、昼餉にしよう。
出稽古の際、剣術指南役柳生宗在様から、何か指示はあるか」
徳三郎は道場から母屋へ向う戸口へ歩いてそう訊いた。
「最初の出稽古の際に、稽古先の幕閣の屋敷を指示されただけで、その後は何も指示されません。何か指示があるときは、と言っても出稽古先の変更や出稽古の刻限変更だけですが、その日の出稽古先に、事前に、剣術指南役から連絡があるだけです」
「そうか・・・」
「ところで、伯父上。何か、用があったのではないのですか」
唐十郎は、伯父上はなんで私を呼んだのかと思った。
「昨夜、両国橋西詰めで、三人の武家らしき男が刺殺された件の下手人は、先の先を行う手練だ・・・」
「ああ、それで私を確かめた・・・」
「三人は刀の柄を握ったまま仏になっていた。三人は辻斬りだ」
唐十郎は三人を手にかけていない、と徳三郎は思った。唐十郎が下手人なら、三人は柄を握ることもできなかったろう・・・。
「下手人の目星はついたのですか」
「下手人はわからん」
「辻斬りは何者ですか」
「今、町方が三人の身元を探っている。三人は、水戸徳川家上屋敷の外出宿泊手形を持っておった。町方が手形持参で事件を水戸徳川家上屋敷へ伝えたら、上屋敷留守居役が馬で駆けつけて、足軽頭が仏の男三人を手引きして水戸徳川家上屋敷に盗みに入った折に、紋付羽織袴などとともに盗まれた手形で、三人が仏となった件は水戸徳川家とは無関係だ、と説明した」
「もしやして、水戸徳川家上屋敷留守居役は後藤織部様ではありませぬか」
「いかにも、後藤織部様じゃ。唐十郎は知っているのか」
「はい、出稽古の折に世話になっています。後藤織部様には子息の後藤伊織がいて、これが剣の筋は良いのですが・・・」
「その者は嫡男か」
「はい。男子はその者のみです」
「留守居役の仕事に興味が無いのが、唐十郎の口ぶりでわかったぞ。
上屋敷におらぬのだな」
「はい。下屋敷の留守居を命じられて下屋敷の警護にあたっていますが、頼まれると断りずらいようで、下屋敷の中間部屋を賭場に使わせているようです」
「困り者だな。さては、上屋敷の外出宿泊手形と紋付羽織袴の盗みに、後藤織部の嫡男が関係していたと言うことか。そうなると、刺客の三人とも関係していることになる・・・」
「後藤伊織が盗みに荷担しているとは思われませぬ。ぐうたらですが、いたって生真面目な男です」
「盗みを働くほどの悪人ではないが、博打好きか・・・」
「はい。酒も好みます。
ところで、辻斬りに遭った者たちはどういう者たちですか」
「皆、藤五郎と親しかった者たちだ。香具師仲間でない。今、与五郎たちが探っている」
「刺客は藤五郎と親しかった者たちを始末して、さらに、藤五郎一味を始末しようとしているのですね」
「おそらくそうだろう」
「縄張り争いですか・・・」
唐十郎は徳三郎が勘定吟味役荻原重秀と交した密約を思いだした。
伯父上の推察どおりになってきた・・・。刺客を雇ったのは吉次郎の残党の福助一味だろう。今宵、あかねとともに、水戸徳川家下屋敷と福助一味に探りをかけよう・・・。
唐十郎の妻のあかねは、今は亡き大老堀田正俊の養女で忍びだ。
