八 忍びの女

文字数 1,084文字

 その夜。
 妖刀はふたたび封印されて、唐十郎の大小とともに床の間にあった。
 布団に入った唐十郎は、徳三郎の語った幕府の改革案を思った。

「今、帰ったぜ」
 隣の長屋から藤兵衛の声がした。お綾が機嫌よく何か言い、この夜更けに魚を焼く匂いが漂ってきた。夕方からの大工の寄り合いで酒と肴が出たはずだ。小腹が空いたのだろうと唐十郎が思っていると、香の匂いが漂って、唐十郎はいつのまにか眠りについた。

 物音で目覚めた。
 天井から誰かが見ている気配がある。長屋は平屋だ。屋根裏は人が入れるほど広くない。 唐十郎はとっさに床の間の刀に手を伸ばそうとしたが、身体は眠ったまま動かない。
 天井板が外れて、黒装束の者が音もなく畳に舞い降り、唐十郎の傍に片膝ついて頭巾を取った。現れた顔は藤兵衛の女房お綾に似ていた。唐十郎は思わず、お綾さんと言ったつもりだったが声が出なかった。

 有明行灯の明りの中で、お綾に似た女は唐十郎の耳元に口を寄せた。
「あの刀、無事にひとつ、事を成し終えました。これからも、あなた様の定めを全うなさいませ。この事、藤兵衛は何も知りませぬ。知るのはお綾のみです。昼のお綾は町人なれば、私に何か連絡があれば、連絡は、藤兵衛に知られぬよう、お綾になさりませ」
 そこまで話して、お綾に似た女は畳から舞いあがり、天井裏に姿を消した。

 唐十郎はやっとの思いで身体を起こして家の外へ出た。藤兵衛の長屋は明りが灯って魚の焼ける匂いが漂い、酒と肴の用意ができた、とお綾の明るい声がした。

 お綾に似た忍びの女が語った私の定めとは、いったい何だ。(まつりごと)商人(あきんど)の不正を正す事か。
 これまで公儀(幕府)は、改革と銘打って百姓町人を働かせ、一時の豊かさを与えたが、改革の利益は公儀と各藩、商人の懐に入り、庶民はあいかわらずその日暮らしのままだ。
 幕藩体制の上に立つ者は、食べ物から着る物、住居に至るまで、全て百姓町人が手がけた物を所有する。銭も年貢米を商人を通じて換金したものだ。また支配の憂き目が庶民に下される・・・。そう思うと唐十郎はやりきれなくなった。

 仮に公儀に代る体制ができたら、どうなるだろう・・・。しかし、庶民の暮らしが豊かになり、明るく暮らせる日々が続けば、それだけで良いのか・・・。
 いつの世も天変地異は有り得る。豊作が永遠には続かぬように、いつか思わぬ事が起こるのが世の定め。その時どのように対処するかが政の価値を決める・・・。
 月を見ながらそんな事を思う唐十郎は、己の周囲に渦巻く不穏な陰を感じた。それは世の中に蔓延する不穏な空気を、いち早く唐十郎自身が察知しているように思えた。
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