十 懸念

文字数 2,376文字

 藤兵衛と岡野智永たちは肥問屋吉田屋を出て、堀切橋南詰め河畔の検視現場に戻った。
 すでに検視はすんで、弥助の遺体は大八車で弥助の自宅に運ばれてゆくところだった。

 藤兵衛と岡野智永は、肥問屋吉田屋での聞きこみを与力の藤堂八郎と徳三郎たちに報告した。
「藤五郎と吉次郎は赤の他人だ。いずれ御上を欺いた吉次郎を縄にかけてやろうぞっ」
 藤堂八郎も、裏社会で亀甲屋藤五郎の甥を騙って香具師の元締を継いだ吉田屋吉次郎を捕縛する機会を狙っている。

 報告を聞きながら、町医者の竹原松月と徳三郎は帰り支度した。
「これで、日野先生はお帰りですか」
 藤兵衛は徳三郎と町医者の竹原松月を見た。
「うむ。松月先生と話したい事があるゆえ、先に帰る・・・。
 藤堂様。町方が白鬚社付近を探ったら目立ちます。白鬚社の浪人の聞きこみは唐十郎たちに任せては如何か」
 徳三郎は同心たちの羽織を示した。
「如何にもそれがいい。我らは廻船問屋吉田屋を探る。
 では、これにて失礼する」
 藤堂八郎は同心と岡っ引きたちを連れて、大川堤の街道へと堀切橋南詰め河畔を離れた。
 唐十郎たちは隅田村の村内へ歩いた。


 徳三郎は町医者竹原松月は検視現場を去って隅田村の百姓渡しへと白鬚社への街道を歩いた。
 日野道場主日野徳三郎は、特使探索方を務める以前から検視検分方として神田佐久間町の町医者竹原松月と知古である。

「日野先生。こたびの下手人をどう思います」と医者竹原松月
「刺客ですな・・・」
「日野先生もそう思いますか・・・」
「如何にも。ほれ、白鬚社にも、あのような者がいる。
 百姓の一人や二人、葬るのは造作もないこと」
 徳三郎は白鬚社を目で示した。
 白鬚署の境内を、見覚えある浪人がのんびり歩いている。その姿が何か妙だ。浪人者は徳三郎と竹原松月を見ると、そそくさと白鬚社の裏手へ歩いた。浪人を認めた竹原松月は、白鬚社から街道の先へ目を転じた。白鬚社を見ようとせずに、浪人に気づいていない素振りで話した。
「これは妙な。あの者は私らに見覚えでもありますかな」
 徳三郎も街道の先を見たまま呟く。
「あの者は、昨年暮れに、下肥の買付けに来た者です」
「下肥を買付けた浪人。百姓の斬殺死体。無関係には思われませぬな」
「唐十郎が探るでしょう」
「浪人が下肥の買付けに来た際、唐十郎様はあの者と顔を合せておいでか」
「顔を合せたのは儂と家内だけです」
 もしやして特使探索方の顔ぶれはあの浪人に知られているかもしれない、と徳三郎は思った。


 夕刻。
 唐十郎と藤兵衛、正太が日野道場に戻って隅田村の聞きこみを報告した。

『吉田屋吉次郎が、肥問屋吉田屋を開店する際に浪人者を雇っていた』
 と藤兵衛は、肥問屋吉田屋の仁吉から聞きこんでいるが、浪人者が誰か不明だ。
「村の者で刀を使えるのは、白鬚社の番小屋に住みついた五人の浪人だけです」
 五人はいろいろ小金を稼いで筆や墨、算盤を買い求めて、村の子どもたちに読み書き算盤を教えている。左利きの者はいない。藤兵衛が聞きこんだ仁吉の話と隅田村の村人の話は一致している、と唐十郎は報告した。

「昨年暮れに、浪人たちが下肥の買付けを手伝っていたとの話はなかったか」
 徳三郎は、昨年暮れに下肥を買付けに来た者たちを思いだしてそう訊いた。
「そのような話は聞きませんでした。
 浪人たちが下肥商いをしていたのですか」
 唐十郎は徳三郎にそう訊きかえした。手習いの道具を揃えるために、浪人たちは下肥の商いを手伝って小金を稼いでいたかもしれない・・・。

「帰りがけに、松月先生と話していたら、白鬚社に見覚えある浪人を見かけた。
 昨年暮れに、三人で下肥の買付けに来た者の一人だ。
 藤兵衛たちの聞きこみで、仁吉はその事を話さなかったか」
 徳三郎は藤兵衛に、肥問屋吉田屋での聞きこみを確認した。
「仁吉は浪人を知らぬ風でした。誰が、弥助の下肥買付けを助っ人をしていたか知らぬと言ってました」
 やはり、仁吉は何か隠していた、と藤兵衛は思った。

「篠っ。ここに来てくれっ」
 徳三郎は妻の篠を呼んだ。
 座敷に徳三郎の妻篠が座った。
「すまぬが、藤兵衛と正太、あかねと唐十郎の夕餉も用意してください」
「はい、わかりました」
「先生。お待ちください。女房が飯を作って待ってます。あっしと正太は帰ります」
「私もあかねとともに帰ります。お綾さんが夕餉を作っています。心配は無用に願います」
 藤兵衛と唐十郎は徳三郎の申出を辞退した。

「そうか、すまぬな・・・。
 ところで篠。昨年暮れに下肥を買付けにきたのは、どこの御店だったか教えてくれぬか」
「たしか、新たに下肥を扱うようになった吉田屋、と話していました。
 それが何か」
「いや、忙しい時にすまぬな。いろいろ確かめたい事があったのだ」
「わかりました・・・」

 篠が座敷を去ると徳三郎は事件に話を戻した。
「さて、こたびの件は、下手人二人が弥助を前後から斬殺したとみてよい。
 唐十郎が懸念したように、下手人の一人は左利きだろう。太刀筋から見て、二人ともかなりの手練れだ。白鬚社を歩いていた浪人も、立ち居、足の運び、かなりの腕前と見た。
 他にも斬殺される者が出るやもしれぬ。
 与五郎、達造、仁介は、廻船問屋吉田屋が他にも浪人者と連絡を取っていないか探れ。
 藤兵衛と正太は肥問屋吉田屋だ。
 唐十郎は白鬚社の浪人と親密になれ。方法は・・・」
 徳三郎は、唐十郎が思ってもいなかった事を告げた。

 与五郎は小間物の辻売りだ。達造は飴売り、仁介は毒消し売りだ。三人とも亀甲屋の元の主、香具師の藤五郎の世話になっていたが、藤五郎が鎌鼬に斬殺される以前に、特使探索方の手下になって藤五郎の元を去っている。
 藤五郎亡きあと、香具師の跡目と縄張りを継いだ廻船問屋の吉田屋の吉次郎も奉公人も、与五郎たち三人が特使探索方の配下と知らずにいる・・・・。
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