二十二 鎌鼬

文字数 2,397文字

 夜九ツ(子の刻、午前零時)。
 昨日からの雨はあがったが、雲が低く垂れこんだ夜だった。
 唐十郎の長屋の屋根に、忍び装束の者が現れて、闇に消えた。
 長屋の通りに、黒の着流しに黒頭巾の男が現れた。男は音も立てずに走り去った。

 田所町と長谷川町の間の通りから、黒装束の男が隠し潜り戸を抜けて、音もたてずに亀甲屋の奥庭に現れた。忍び装束の者の手で奥座敷の雨戸が音も無く引き開けられて、黒装束の男が音もたてずに縁側に上がった。

 有(あり)明(あけ)行(あん)灯(どん)の明りが灯る座敷の臥所で、藤五郎は目覚めた。侵入者に気づいたわけではない。亡くなった三人の事が気になって、よく眠れないのだ。
 今まで勝手気ままにやってきた。どんな時も寝覚めが悪かった事など無かった。晩酌をやり過ぎたか・・・。おれも歳を取ったな・・・。
 そう思いながら、藤五郎は酔い覚ましの水を飲もうと、手を枕頭の水差しへ伸ばした。その時、音もなく障子が開き、これまた音もなく黒い塊が躍り込んできた。
 藤五郎は瞬時に布団を撥ね除け、臥所から転げ出て床の間の刀を掴んだ。鞘を払って背後を薙ぎ払う寸前に、黒い塊から一丈の光芒が走り、藤五郎の頭が血(ち)飛(し)沫(ぶき)を放って畳に転がった。

 翌朝。快晴になった。
 亀甲屋の番頭の吾介は、起きてこない主を呼びに奥座敷に声をかけて障子を開け、その惨劇に腰を抜かした。
 ただちに使いが走り、町方に藤五郎斬殺の訃報を知らせた。


 朝五ツ(午前八時)過ぎ。
「この太刀筋は・・・」
 藤五郎を検視した徳三郎は言葉を無くした。人一人が首を刎ねられたのだから言葉を慎まねばならぬのだが、あまりにみごとな太刀筋なのである。おそらく藤五郎は痛みも感じなかったであろうし、首を刎ねた刀は刃こぼれ一つしていないだろう・・・。凄まじい剣の使い手だ・・・。
「鎌鼬か」
 与力の藤堂八郎は徳三郎の返答を待った。
「いかにも、まちがいない・・・。これほどの使い手は、江戸市中にはおらぬ・・・」
 藤堂八郎の問いかけに、徳三郎は深く頷いてそう答えた。

「伯父上。藤五郎はなぜ殺害されたのでしょう」
 唐十郎がそう訊くまもなく、同心の岡野智永が、床の間の手文庫の中から、二本軸の銀の平打簪と玉簪を見つけた。二本とも油紙に包まれ、それを手紙の如く和紙で包んであり、一見、ぶ厚い手紙のようになっていた。
「藤堂様。これは・・・」
 二本軸の平打簪や玉簪はどちらも二本軸が黒く変色している。そして二本軸の長く並行した針状の部分が、一度大きく拡げてまた元に戻したらしく、付け根が変形していた。
「二本軸を拡げて、一本の長い鍼のようにして使ったのであろう。
 それとこの変色は・・・。
 先生方。この変色を如何様に判断しますか」
 刀による検視を終えた徳三郎は、その他の検視を町医者の竹原松月に任せて、藤堂八郎が示す二本軸の平打簪と玉簪を手に取り、変色を見た。簪は二本とも二本軸の針状の部分の両方が二寸ほど黒く変色しており、他は変色していなかった。

「松月先生。これを見てください」
 徳三郎は簪を竹原松月に見せた。竹原松月は簪を手に取り、
「変色しているここまでを身体に刺したのです。拭っただけでは身体の塩気は取れません。まちがいありません。
 しかし、妙です。銀は汗などで変色しますが、三日や四日で、ここまで黒くはならないと思います」
 と言った。
「これは、もっと以前から使われていた、と言うのですか」
「いかにも・・・」
 藤堂八郎の問いに竹原松月と徳三郎は頷いた。

「そうなると、以前にも、堀に落ちた者が溺死と判断された・・・」
 おそらく藤五郎の手で殺害されて、町方に届けられずに、酔った挙句の事故や病死として片づけられた・・・。六助、山形屋吉右衛門、鍼師の室橋幻庵は、香具師の藤五郎と如何なる関係だろう、と藤堂八郎は思った。

「しかしながら、一度変色した簪で何度刺そうとも、もはや変色は起きません。
 この簪が今回の事件に使われた可能性は消えません・・・」
 唐十郎はそう断言した。
「確かに、そうだ・・・」
 まだ、藤五郎の嫌疑は消えぬ・・・。そう思いながら藤堂八郎は同心の松原源太郎に訊いた。
「松原っ。賊の侵入手口がわかったかっ」
「いえ。わかりません。雨戸は何処も中から戸締りされたままです。家の中からここに侵入したとしか考えられません」
「店の者は何と言っている」
 今、亀甲屋の店の者たちは全員が店に居る。奥座敷に居るのは町方と特使探索方と医者の竹原松月だけである。

「番頭の吾介が主の様子を見るため、店から奥座敷へ入ってますが、何も異変はなかったと言ってます。奥座敷に入ったのは番頭だけです」と同心の松原源太郎。
「侵入手口は不明・・・。一刀で首を刎ねている・・・。そして、この簪だ・・・」
 賊は鎌鼬だ・・・。香具師の藤五郎は簪で何人も殺害したため鎌鼬に殺られた・・・。 そう思いながら藤堂八郎は竹原松月から簪を受け取った。

「藤堂様。これを・・・」
 床の間の飾り棚を支える細めの桜の柱が、一部だけ微妙に艶がでている。藤兵衛はその柱に手をかけて、上下左右に動かした。すると、飾り棚が壁ごと床の間の奥へ滑り、飾り棚と床の間の柱のあいだに、人一人が入れる隙間が現れた。
「入ってみますか」
 藤兵衛の問いに、藤堂八郎が頷いた。藤兵衛は隙間へ身を潜らせた。

 床の間の隙間は、奥座敷の内壁と外壁の間の空間に続いている。先へ進むとその空間は腰板のような板に突き当たった。藤兵衛が手探りで板を探ると、右側の胸の高さに釣瓶の引き綱に似た綱の手触りがあった。藤兵衛はその綱を引いた。すると、目の前の板が引き上がった。田所町と佐久間町の間の通りへ出る隠し潜り戸が現れた。潜り戸からは奥庭へも行けた。
 隠し潜り戸を抜けると、
「なんと!」
 藤兵衛の背後からついてきた藤堂八郎は、戸外の眩しさに目を細めた。
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