二 お藤の決意

文字数 1,308文字

 昼八ツ半(午後三時)
 お藤は田所町の亀甲屋を出た。
 この日のお藤は紺地に浅葱色の小紋の小袖に雪駄を履いて、髪は玉結びで前髪は立てて膨らませた吹前髪(ふきまえがみ)だ。通旅篭町(とおりはたごちょう)から両国橋を渡って本所から押上村へ行き、お藤は香具師の又三郎に会った。又三郎は香具師の元締だった藤五郎の配下で、押上村で暮す本所界隈の香具師の元締だ。お藤の実家が押上村にあるため、お藤は又三郎とは知古である。
「姐さん。どうしなすった」
「思った通り、吉次郎が話を持ってきた。隅田村の肥問屋吉田屋で、亀甲屋の奉公人を雇いたいと言ってきた」

「香具師仲間はみんな、吉次郎が元締の甥なんかじゃねえのを知っている。
 吉次郎は、元締の(藤五郎の)一家を皆殺しにして、香具師の縄張りと亀甲屋の廻船取引の縄張り、それに下肥商いの縄張りを完全に手に入れる腹ですぜ。
 隅田村へ行きましょう。隅田村と若宮村の世話役に、
『吉次郎が香具師を使って、江戸の下肥引取りの縄張りを独占する。下肥を値上げするから、値上げに応ずるな』
 と知らせましょう。小梅村と押上村には、あっしから話しておきますんで」
 又三郎は急いでお藤を舟に乗せ、押上村の水路を大川へ進んだ。


 大川を溯って古隅田川へ舟を進めた。
 堀切橋の南詰めで舟を停めて、堀切橋を渡る街道を隅田村へ行き、隅田村の中心部にある世話役の弥助の家に着いた。

「これはこれは、お藤さん。よくおいでくださいました。
 急なお越し、何がありましたか」
 前触れもなく訪ねてきたお藤と又三郎に、弥助は驚いている。
「実は、廻船問屋の吉田屋吉次郎が、出店の肥問屋吉田屋で、亀甲屋の奉公人を雇いたいと言ってきました。
 ここに来る途中、堀切橋の街道沿いに肥商いの店があった。あれが吉田屋ですね」
「はい」
「吉次郎の話に乗るつもりだから、協力を頼みに来たのです」
「よおござんす。なんなりと言いつけてください。
 これ以上、肥商いの縄張りを独占されて肥の値を上げられては、作物の値を上げるしかなくなり、作物が売れなくなっちまう。
 お藤さんが肥問屋吉田屋を仕切ってくれれば、肥の値上げを押えられる」
「すぐさま、そうできぬが、いずれそうしましょう。
 今後、いろいろ、皆さんにお願いすることもあります。その時はよろしくお願いします」
 お藤は畳に手を着いて、弥助に深々と御辞儀した。

 弥助はお藤にただならぬ決意を感じた。
「お藤さん。決意のほど、察しました。その時は、なんなりと言いつけてください。
 吉次郎の思い通りにしたら、江戸で野菜を食えなくなっちまいます。
 若宮村の太吉さんにも話しときますんで、お藤さんは安心して、肥問屋吉田屋に引っ越してきてください」
 弥助はそう言って、これで肥の値上りを押えられると喜んでいる。
 お藤は、くれぐれも、太吉さんによろしく伝えてください、と言って、又三郎とともに弥助の家を出て堀切橋に戻り、舟に乗った。

「又三郎さん。大川では舟の事故が多い。
 吉田屋の主も、舟が沈んだら、助かるまい・・・」
 そう言ってお藤は、吉田屋吉次郎の殺害を暗に示した。
「へい。(かしら)の甥を騙った者を、閻魔様も許さないってもんですね」
 そう言って又三郎は櫓を操りながら笑った。
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