一 大八車
文字数 1,564文字
長月(九月)初旬。
幕府が正式に発布した天下普請の触書によって江戸市中改築造工事が始り、随所で拡幅工事の道普請や堀の延長、橋の改築や石垣の改築、海浜の埋め立てが行われている。
本来、荷は堀を舟で運ぶ。道路の拡幅や海浜の埋め立てなど、陸路を運ぶのに運脚や馬を使う。運ぶ物が増えると限界があるため、近頃、大八車の需要が増えた。
長月(九月)中旬、夕刻前。
神田横大工町の長屋から、藤兵衛の活気に満ちた声がする。
唐十郎は、今帰った、と言って藤兵衛の長屋に入って、興味深く藤兵衛たちの作業を見つめた。
「お帰りなさいまし。車の車輪を作ってます」
車とは大八車だ。藤兵衛に、江戸市中改築造工事の運搬用大八車を造って欲しい、と頼む客が増えて、藤兵衛と正太は大忙しだ。
「こうやって組み合わせて丸くして・・・」
藤兵衛は、台形の厚板の上底と下底に凸凹二種類の鉋 をかけて、扇の骨を抜いたような形の幅の狭い木片を八枚合せた。木片は円形になって厚味のある輪に変身した。
「鉄の外輪をはめて車輪にして、この輪の内側から丸棒を軸受けに伸ばして、軸受けに軸を通せば車輪のできあがりです」
正太は欅 の細い角材に鉋をかけて四分径の丸棒に仕上げている。
「正太の作っているのは軸受けの中に仕込むコロです。車輪の回りが良くなります」
藤兵衛が話している間に、藤兵衛の女房のお綾が井戸端から野菜を洗って戻った。
「お帰りなさいまし。ここが片づいたら夕餉の支度をしますね」
お綾は唐十郎を長屋の奥に招いてお茶をいれた。土間は鉋屑だらけだ。
「天気がいいんだから外でしておくれと言ってるんですよ」
お綾は、居間兼寝間の畳の部屋が、大工仕事の塵と埃で汚れるのを嫌っている。
「竃 の焚付けが増えて、当分のあいだはこまらねえってもんです。唐十郎様」
長屋は狭い。四畳半ほどの畳の部屋が二間と土間兼炊事場がある藤兵衛の長屋は珍しい。
唐十郎の長屋のように畳の部屋一間に土間兼炊事場が付いているのが一般的だ。
「外に作業場があるのに材料が濡れたら困るのいってんばりで、この有様ですよ」
ここ横大工町のような大工町には、長屋の外れに大工仕事の作業場があるが、藤兵衛はお綾の思いなどまったく意に返さない。
「お綾さんも悩みが尽きぬな」
そう言うものの、藤兵衛も正太も長屋の土間に腰を据えた仕事をするのだから、高い所に登った二人を思ってお綾が気を揉むこともない。大八車一台の手間賃が値上りしているから、お綾の機嫌はいつになく良い。
「それじゃ、あたしは外で夕餉の支度をしますから」
「外では何かと不便だ。我家にあかねも居るゆえ、我家の炊事場を使って、我家で夕餉にすればいい。あかねにそう伝えてくれぬか」
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきますよ」
お綾はまな板と庖丁、野菜を持って長屋から出ていった。
上り框に腰を降ろした唐十郎はお茶を飲みながら、大八車を作る藤兵衛の作業に見入った。
「出稽古はいかがですか」
「今日は道場だけだ。天下普請で大名家も忙しいようだ」
「大名も天下普請とは恐れ入りやす。あっしらも車の注文が増えて、忙しいやらうれしいやらです」
「手間賃が増えて良いではないか」
「実入りが増えるのはありがたいですが、車が増えて往来も気が抜けなくなりました。
往来の危さを思うと妙な心境になりやす・・・。
そう言うあっしが、こうして車を造ってんだから、何と言っていいものやら・・・」
今日の藤兵衛は、いつになく世間を気遣っている。
江戸市中の道は大八車などが通るように造られていない。大八車を連ねて通ったり、停車するのは、歩く者たちの妨げになっている。
「御触書も出ておるゆえ、心配なかろう」
そう言ったものの、唐十郎は、藤兵衛の言葉、
「車が増えて往来も気が抜けなくなりました」
が気になった。
幕府が正式に発布した天下普請の触書によって江戸市中改築造工事が始り、随所で拡幅工事の道普請や堀の延長、橋の改築や石垣の改築、海浜の埋め立てが行われている。
本来、荷は堀を舟で運ぶ。道路の拡幅や海浜の埋め立てなど、陸路を運ぶのに運脚や馬を使う。運ぶ物が増えると限界があるため、近頃、大八車の需要が増えた。
長月(九月)中旬、夕刻前。
神田横大工町の長屋から、藤兵衛の活気に満ちた声がする。
唐十郎は、今帰った、と言って藤兵衛の長屋に入って、興味深く藤兵衛たちの作業を見つめた。
「お帰りなさいまし。車の車輪を作ってます」
車とは大八車だ。藤兵衛に、江戸市中改築造工事の運搬用大八車を造って欲しい、と頼む客が増えて、藤兵衛と正太は大忙しだ。
「こうやって組み合わせて丸くして・・・」
藤兵衛は、台形の厚板の上底と下底に凸凹二種類の
「鉄の外輪をはめて車輪にして、この輪の内側から丸棒を軸受けに伸ばして、軸受けに軸を通せば車輪のできあがりです」
正太は
「正太の作っているのは軸受けの中に仕込むコロです。車輪の回りが良くなります」
藤兵衛が話している間に、藤兵衛の女房のお綾が井戸端から野菜を洗って戻った。
「お帰りなさいまし。ここが片づいたら夕餉の支度をしますね」
お綾は唐十郎を長屋の奥に招いてお茶をいれた。土間は鉋屑だらけだ。
「天気がいいんだから外でしておくれと言ってるんですよ」
お綾は、居間兼寝間の畳の部屋が、大工仕事の塵と埃で汚れるのを嫌っている。
「
長屋は狭い。四畳半ほどの畳の部屋が二間と土間兼炊事場がある藤兵衛の長屋は珍しい。
唐十郎の長屋のように畳の部屋一間に土間兼炊事場が付いているのが一般的だ。
「外に作業場があるのに材料が濡れたら困るのいってんばりで、この有様ですよ」
ここ横大工町のような大工町には、長屋の外れに大工仕事の作業場があるが、藤兵衛はお綾の思いなどまったく意に返さない。
「お綾さんも悩みが尽きぬな」
そう言うものの、藤兵衛も正太も長屋の土間に腰を据えた仕事をするのだから、高い所に登った二人を思ってお綾が気を揉むこともない。大八車一台の手間賃が値上りしているから、お綾の機嫌はいつになく良い。
「それじゃ、あたしは外で夕餉の支度をしますから」
「外では何かと不便だ。我家にあかねも居るゆえ、我家の炊事場を使って、我家で夕餉にすればいい。あかねにそう伝えてくれぬか」
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきますよ」
お綾はまな板と庖丁、野菜を持って長屋から出ていった。
上り框に腰を降ろした唐十郎はお茶を飲みながら、大八車を作る藤兵衛の作業に見入った。
「出稽古はいかがですか」
「今日は道場だけだ。天下普請で大名家も忙しいようだ」
「大名も天下普請とは恐れ入りやす。あっしらも車の注文が増えて、忙しいやらうれしいやらです」
「手間賃が増えて良いではないか」
「実入りが増えるのはありがたいですが、車が増えて往来も気が抜けなくなりました。
往来の危さを思うと妙な心境になりやす・・・。
そう言うあっしが、こうして車を造ってんだから、何と言っていいものやら・・・」
今日の藤兵衛は、いつになく世間を気遣っている。
江戸市中の道は大八車などが通るように造られていない。大八車を連ねて通ったり、停車するのは、歩く者たちの妨げになっている。
「御触書も出ておるゆえ、心配なかろう」
そう言ったものの、唐十郎は、藤兵衛の言葉、
「車が増えて往来も気が抜けなくなりました」
が気になった。