九 聞きこみ

文字数 4,427文字

 ごめんよ、と肥問屋吉田屋の店先で声がする。
 聞き覚えのある声に、大番頭の仁吉は帳場机の前から立って店先へ出た。店先では手代の与平が、暖簾をくぐった町方と話している。
「同心の岡野さんが、亡くなった弥助さんの事を聞きたいと言って・・・」
 与平は、上り框に人数分の座布団を置くと、茶菓をお持ちします、と言って、その場を離れた。
 同心岡野は上り框の座布団に腰を降ろした。藤兵衛と正太、下っ引きの留造は立ったままだ。

 仁吉たち亀甲屋の奉公人は、昨年神無月(十月)に藤五郎が鎌鼬に斬殺された一件から、町方と面識がある。
「お役目、ご苦労様です。
 弥助さんは私どもの支えでした。惜しい人を亡くしました・・・」 
 仁吉は店先に正座して、お藤さん、と奥へ声をかけた。
 店先に現れたお藤が仁吉の横に正座して御辞儀する、と仁吉は言った。
「こんな時になんですが、私もお藤と所帯を持ちまして・・・」
「それはめでたいことです。いろいろあったから、私たちも皆さんを気にしていました。
 与力もあちこちに手をまわしただけの事はありました・・・」
 岡野は溜息をついた。
「はい、その節はいろいろありがとうございました」
 仁吉は、町奉行所が亀甲屋の奉公人たちの罪状を決めるにあたり、裏で与力の藤堂八郎と特使探索方の日野徳三郎が町奉行にかけあって、五年の江戸所払いとなった事を知っていた。

 手代の与平が上り框に茶菓を置いた。
 仁吉は町方の聞きこみを考えて、お藤に、奉公人を人払いするように言った。
 お藤は仁吉の意を理解して、
「私はこれで失礼いたします。お前さん、皆様に粗相のないように」
 と言って岡野たちに御辞儀し、奉公人を全員連れて店の奥へ引っこんだ。

「ところで、弥助さんの事でおいでだと思いますが・・・」
 町方と特使探索方の目的はわかっている。仁吉は話を本筋に進めようとした。
「昨日、弥助さんがここに来たと思う。何を話したか、聞かせてくれまいか」
「はい。弥助さんは夕方ここに来ました。
 下肥が値上りする話が拡がってましたから、その事で相談に来ました・・・」
 そう言って仁吉は説明した。

 今、江戸市中は天下普請で職人や人足が増えて、野菜や魚介類の需要が増えている。野菜を大量に生産するため地味が減り、江戸近郊の百姓の間では肥料の需要、しかも下肥の需要が高まっている。その事を知った武家や町人は下肥を売り渋って売値をつり上げている。そうした武家や町人の行いに腹を立てた肥問屋は武家や町人の下肥を引取らずにいる。武家や町人は厠に下肥が溜って悪臭が漂っても、意地を張って肥問屋の下肥引取り値に応じない。その事を知った弥助が、
「以前のように肥問屋を通さず、直接下肥を買付ける」
 と言いだしたのである。

「以前は百姓がじかに買っていた下肥だ。また、百姓がじかに買付けても問題なかろうと思うが・・・」
 岡野智永は何気なくそう言った。
「表向きはそうですが、この御店は廻船問屋吉田屋の出店ですので・・・。
 吉次郎は、下肥の仕入れ先を決めるのに、香具師の手を借りたと噂に聞いてます」
「香具師の筋から手をまわして、下肥商いの縄張りを決めたのですか・・・。
 百姓の下肥商いの縄張りを、肥問屋と香具師の元締が奪った事になりますね・・・」

 香具師の元締藤五郎の縄張りは日本橋界隈だが、他所にも藤五郎の息がかかった香具師は多く、江戸市中のおもだった地域が藤五郎と何らかの関わりがあった。吉次郎は地元の香具師に話をつけて、香具師を使って武家や町人に脅しや嫌がらせをさせて下肥を肥問屋吉田屋が引取るように仕向け、不当に下肥商いの縄張りを手に入れていた。

 本来、香具師は薬や香などを商う露天商や辻商いなど、十三香具師を示した。実際は露天商や辻商いの、仕切りや管理をする者たち賤民(人別帳に記載のない人物、無宿人)が香具師と呼ばれるようになった。香具師の仕切りや縄張りは、町方の取締りの範疇外であり、下肥商いは香具師の扱う品ではない。


 岡野智永も藤兵衛たち同様に、新大坂町の廻船問屋吉田屋吉次郎が香具師の元締藤五郎の甥を騙って藤五郎の跡目を継いだのを知っている。しかし、この事は表沙汰になっていない。
 咎は全て連帯責任だ。藤五郎の咎は親戚縁者と奉公人にも責任が課せられるため、吉次郎が香具師の元締藤五郎の甥を名乗って藤五郎の跡目を継いだ事が表沙汰になれば、吉次郎は江戸所払いは免れない。
『御上は吉次郎が何かしでかすと踏んで、今は、吉次郎の騙りを知らぬふりしている。御上は、いずれ、それなりの裁きを下す・・・』
 岡野智永はそう考えていた。

「私は去年の霜月からこちらの奉公に上がったので、詳しい事をわかりません。
 しかしながら、そのような事を噂に聞いているだけでして・・・」
 仁吉は吉次郎が下肥商いの縄張りを得た手立てを知っていたが、知らぬふりをした。

「香具師の筋から手をまわしたことに、まちがいないのですね。
 それで、弥助さんは、いつから以前のように下肥の買付けを始めたのですか。
 市中を探ればすぐわかることです。話しなさい」
「すみません。村の衆にも迷惑がかかりますから、ここからの話は内密にしてください」
「わかりました。内密にします」
 岡野智永が承諾した。藤兵衛ともども正太と下っ引きの留造が頷いている。

「実は、下肥の買付けに不慣れな私は、大番頭になる前から、下肥買付けの経験がある弥助さんに買付けを手伝ってもらいました・・・」
 仁吉は下肥の値上りを気にする弥助に、買付けを手伝ってくれたら、その下肥をそのまま弥助に譲る約束をした。弥助が買付けた下肥を肥問屋吉田屋を通さずに黙認するのである。そして弥助は仁吉が話した事を口外しないと約束した。

「弥助さんは誰を助っ人にして下肥買付けをしてましたか」
「わかりません。助っ人の人選は弥助さんに任せてありましたから。
 なにぶんにも、この事は内密にしてください。
 吉次郎に知れれば、私は追いだされます。なにぶんにも内密に・・・」

「わかりました。その事を、弥助さんの女房も知っていたのですね」
「はい。おみのさんも知ってます。
 下肥の買付けは誰にも話すなと、村の皆に伝えてあります」
「わかりました。くれぐも吉田屋吉次郎に気づかれぬようにしてください。
 確認します。弥助さんは昨日ここに来ましたか」
「はい。夕刻ここに来て、今後の下肥の値について話しました。
 帰ったのは日暮れ前です。家へ帰ると言ってました。それなのに・・・」
「弥助さんは堀切村から堀切橋を渡って隅田村へ戻る途中だったらしい。
 どこへ行って来たか、知らぬか」
「いえ、わかりません」
 仁吉は事実を話した。弥助が堀切橋を渡って何処へ行ってきたか、仁吉は知らなかった。
「うむ・・・」
 岡野智永は訊くことを思いつかなくなった。

「岡野様。仁吉さんに、ひとつ訊いてもいいですか」
 藤兵衛が岡野智永に確認した。岡野智永は藤兵衛にうなずいて仁吉を見た。
「仁吉さん。答えてやってください」
「はい、なんなりと訊いてください」
 仁吉は何を訊かれても動じない心構えができていた。

「仁吉さんやこの御店の事じゃありません。
 この近くに浪人や武家の住いがありますか」と藤兵衛。
「五年前から、白鬚社(しらひげしや)の番小屋に浪人が五人住みついてます」
「何を生業にしていなさるか」
「いろいろ請け負うみたいです。賭場の用心棒なども・・・」
 白鬚社の浪人は村人たちと親しい間柄だ。その事を仁吉は話さずにいた。へたな事を話して弥助殺しの嫌疑が浪人たちにかかってはいけない。

「その五人の浪人と、知り合いの者を知ってますか」
 浪人たちがなんでも請け負うなら、殺しを請け負ったかもしれない、と藤兵衛は思った。
「吉次郎がこの肥問屋吉田屋を開店する際、浪人者を雇っていたと話してました。
 その頃の私は亀甲屋の手代でしたから、詳しい事はわかりません」

 生前、香具師の元締だった藤五郎は、浅草寺にたむろしていた無宿の浪人たちを集めて、隅田村に肥問屋吉田屋を開店する吉田屋吉次郎を警護させていた。
 肥問屋吉田屋の開店は何事もなく行われた。浪人たちは礼儀正しい者たちで村人から好感を持たれた。そして、白鬚社を管理する条件で、村人たちは浪人が白鬚社の番小屋で暮らすことを認めた。無宿の浪人たちは村人の恩に報いるため、いろいろ日銭を稼いで紙と筆と硯と墨、算盤などを買い求め、隅田村や若宮村の子どもたちに読み書き算盤を教えている。最近は小梅村や押上村からも、手習いに子どもたちが集っている。
 亀甲屋の手代だった仁吉は、白鬚社に住み着いた浪人たちを知っていたが、藤兵衛に話さずにいた。


「吉次郎はどういう手蔓で、肥問屋吉田屋を開店しなすったのですか」
「私の元の主、藤五郎の口添えと聞きました。亀甲屋は廻船問屋でした。この辺りにも亀甲屋の船が行き来してました。藤五郎は浪人を知っていたようです」
仁吉の説明に、藤兵衛と岡野智永は納得した。

「忙しい時にいろいろすみませんでした。岡野様。他に訊く事はありませんか」
 藤兵衛は岡野を見た。岡野は、無い、と答えた。
「仁吉さん。何か変った事があったら、向こう岸の、熱田明神そばの日野道場に知らせてください」
「わかりました」
 仁吉は、藤兵衛と上り框から立ちあがる岡野に御辞儀した。
 藤兵衛は、仁吉は何かを隠していると感じた。


 町方と特使探索方が店を去ると奥からお藤が現れた。
「お前さん。ご苦労さんでした。お茶をいれますから・・・」
 お藤は奉公人を店に戻して、仁吉とともに店の奥座敷へ移った。

「町方に話した内密な話は、奉公人には聞かれておらぬ。
 だが、手代の与平と勘助が聞き耳をたてていたように感じた。
 二人は、吉次郎の密偵かもしれぬ」
 手代の与平と勘助が吉次郎の密偵かもしれぬと聞いて、与平は愕然とした。
 与平は、亀甲屋が取り潰しになるふた月ほど前に、藤五郎が、吉田屋吉次郎の知り合いの倅だ、と説明して連れてきた奉公人だ。与平の親はすでに亡くなって身寄りはいないとの事だった。仁吉は親のいない与平に目をかけてきただけに驚きを隠せない。吉次郎は亀甲屋にまで密偵を偲ばせていたのか・・・。

「お前さん、こっちに・・・」
 そう囁いてお藤は仁吉をそばに座らせ、仁吉の耳に囁いた。
「弥助さんが亡くなったのは、吉次郎が私たちの先手を打ったと考えねばならぬ。
 手代二人が、私たちの話を聞いて吉次郎に知らせたのだろう。 
 舟の事故の件は、吉次郎に知れたはず。他の手を考えねばならぬ。
 どこで手代が話を聞いているかわからぬ。今後、こうやって話をするよ」
 仁介もお藤の耳元で囁いた。
「わかった。不審者は、誰でも刺客と見るべきだな。
 独り歩きは危ない。おたがいに気をつけよう。
 他の方法を考える」
「あたしも考える・・・」
 そう言ってお藤は仁吉から離れて、長火鉢の鉄瓶を取ってお茶をいれた。
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