五 六助

文字数 2,208文字

「六助は車引きが忙しいのか」
 三日に一度の割で稽古に来ていた六助が、四日前の午後以来、姿を見せていない。
「なにせ天下普請ですから、いずこも忙しいです、先生」
 同期に入門した、地元浅草の八百屋の倅が唐十郎に言った。この二十歳前の若者も、地元の無頼漢から八百屋の店を守るため、剣術の稽古に励んでいる。

 神無月(十月)になった。
 穏やかな秋晴れの陽が西へ傾く頃。
「オラ、小舟町の山形屋と小網町の河内屋へ行って配達してから家へ帰る。
 よろしゅうに」
 六助は給金を懐に田所町の亀甲屋を出た。
 秋の夕日はまだ輝いている。六助は大八車を引いて小舟町の米問屋、山形屋吉右衛門へ急いだ。
「いつもすみませんね。六助さんの米はここに。これは幻庵先生に届けていただく米とお菓子ですよ。他の米はこちらに。届け先の順に車に積みましたよ」
 山形屋吉右衛門は、手代の与平たちが米を積んだ大八車を示した。
「あいよ。オラ、行くよ。吉右衛門さん。ちょいとそこまで来てくんろ・・・」

 六助は山形屋から離れた所まで吉右衛門を呼んで、
「そのうち、あの、いい匂いがする菓子を、オラにも、食わしてもらえねえか」
 と頼んだ。山形屋吉右衛門は辺りを見渡した。
「ここだけの話ですよ。他でしゃべらないでくださいよ」
「オラ、口は堅えぞ」
「わかってますよ。あれは薬が入ったお菓子なんですよ。薬嫌いな人のための、特別なお菓子なんです」
「何だ。幻庵先生もおもしれえ事を考えるな。わかった。黙ってる。
 じゃあ、オラ、配達へ行くよ。今日は、早く帰るんだ」
「給金日でしたか。気をつけてお帰り」
「はーい」
 六助は山形屋吉右衛門とわかれて、小網町の味噌問屋河内屋へ急いだ。町屋の陰から六助の配達ぶりを見ていた香具師の藤五郎は小舟町から中之橋を渡って本舟町へ急いだ。

 六助は小舟町の山形屋から小網町の河内屋まで米を配達した。小舟町の山形屋がじかに配達しても、そうたいした距離ではない。そんな事も考えず、人の良い六助は頼まれるままに小網町の河内屋へ米を配達し、河内屋で自分の親に届ける味噌と、河内屋から頼まれた、本舟町から室町にかけての町屋へ届ける味噌と醤油を大八車に積んだ。
「気をつけて帰るんだよ。六さん!」
「あいよ」
 河内屋の手代、三平に見送られ、六助は本舟町の鍼師室橋幻庵の家へ向った。


「毎月すみませんねえ。あがってください。配達はあと何軒もないんでしょう。
 さっき、亀甲屋さんがお見えになって、六助さんが生真面目で酒も飲まない、なんて話をなさってました。それなら、今日、配達に来るから、たまにはご馳走しましょう、とお梅ともに夕餉を用意しました」
 鍼師室橋幻庵の家へ配達をすませた六助は、幻庵の妻おさきに家の奥へ招かれた。
「はあ、オラ、まだ配達があるから・・・」
 六助は父の太助から、酒を飲むと心の臓が止るから飲むんじゃねえ、と言われている。酒乱の気がある六助は、父太助の気遣いを良くわかっていて、言いつけを守っていた。
 とは言うものの、もうすぐ日暮れだ。六助は腹が空いていた。亀甲屋の藤五郎が六助を気にかけていると知って、気持ちも弾んでもいた。
 幻庵の妻おさきに勧められるまま、六助は焼き魚や漬け物で飯を五杯も食って酒を飲んだ。何合飲んだか、六助は憶えていなかった。
「うまかったよ。幻庵先生に、よろしく言ってくだせえ」
 六助はおさきと下女のお梅に礼を言って、幻庵の家を出た。
 暮れ六ツ半(午後七時)に近かった。
「すっかり、遅くなっちまった。だけんど、うまかったなあ」
 六助は室町の町屋へ大八車を引いて、米と味噌を配達した。

 宵五ツ(午後八時)頃。
「おやっ、六助じゃないですか。仕事帰りですか。
 珍しいね。飲んでますね。心の臓はだいじょうぶですか。何なら、あっしの所に泊まりますか」
 日本橋本町三丁目と室町三丁目の辻に差しかかった時、ふらついて車を引く六助に、日本橋室町の小間物屋平助が声をかけた。

 六助は小声で平助に言った。
「だいじょうぶだ。オラ、これから浅草の親へ給金を届ける。剣術の稽古のおかげで強くなれたぞ。給金を店の若い者にピン撥ねされずにすんだ。ホレ、土産もあるぞ」
 六助は平助に大八車の米と味噌を見せた。
「気をつけて、帰んなさいよ」
「あいよっ」
 六助は本町三丁目と室町三丁目の辻を堀留町の方角へ折れていった。
 やっと一人前の稼ぎを親元に届けられるようになったな・・・。
 六助を見送る平助は、自分の顔に笑みが浮かぶのがわかった。

 六助は大八車を引き、堀留町を右に見て大伝馬町一丁目を過ぎた。大伝馬町二丁目の通りに差しかかった時、
「六助。遅かったのう」
 六助は呼び止める声を聞いた。
「ああ、旦那さん。幻庵先生の家でご馳走になって」
「ああ、それは良かった。ちょいとこっちへ」

 五ツ半(午後九時)近く。
 六助が旦那さんと呼んだ男は、六助を連れて、大伝馬町の通りから堀留町へと南へ折れて、さらに、堀留町と堀江町の通りを東へ折れた。町屋の灯りに、通りの南の新材木町の堀が見えた。通りに人影はなかった。このまま進めば亀甲屋がある田所町だ。
 六助が、御店に帰るんだと思っていると、男の右手が六助の肩に載って、すぐさま男は六助から離れ、その場から足早に歩み去った。
 六助がふらふらと大八車を引いて堀に近寄った。そして、声もなくその場に崩れおちて、堀の石積みを脚からずるずると滑り落ちていった。
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