第58話 優と惠、メイドと執事の物語 ダービーはイングランド貴族の宴(10)

文字数 2,484文字

「3着はヴェルトライゼンデだね」
ソファーに座る果凛は足をふらふらさせながら呟く。
「いい競馬したんじゃない」
冴がそう表すると優は内容を概評し始める。
「コントレイルをマークして3~4コーナーでは外から被せにかかるようでした。あの相手に真っ向勝負で厳しい競馬をしました」
「このしぶとさはG1でいつか花開きそうですねぇ」
鞍さんも馬券は買っていないがヴェルトライゼンデの懸命な走りにどことなく嬉しそうだ。
「サトノインプレッサは4着、健闘だよね」
惠が静かに微笑みを浮かべる。
「騎手が頑張りました」
とは鞍さんの評だ。
「最初のダービーで4着は立派だよ。最内枠から4コーナーまでインの後ろ目で我慢して、直線で馬群を捌きつつ再び内側から伸びて」
優もいいんじゃないですかという評だ。

「最後の直線さ、コントレイルに追いつくかもというサリオスの一瞬の見せ場があったじゃん…」
そういう果凛が珍しくしんみりとした調子だ。
「…あれ、かえって残酷だね」
一呼吸置いた惠が感を追加する。
果凛が下を向きながら『遊ばれての3馬身差はサリオスファンへの鞭打だよ』とまでいう。
惠も淡い涙目で2着が悔しいという雰囲気だ。
だが、一度だけ左右に髪を振ると、気持ちを切り替えるように前を向く。

「ねぇ、優…」
何かを振り切った感がある惠が優しくもしっかりと声掛けする。
「…今年の10月24日は宇治の大吉山に行こうか」
優も好きな吹部小説&アニメの『聖地巡礼』だよ、分かっているよね?と念を押す。
ソファーから立ち上がって、指さす惠に気圧されながら優は頷く。
「翌日は淀ですね」
そういう鞍さんが『菊花賞なんでしょ』と確認すると騒ぐように惠は両手を開く。
「そう、コントレイルが無敗の三冠馬への挑戦を観るわよ!」
「さて、善は急げだ」と惠はスマホを手にする。
少し経って「宇治の宿、ゲット!」と騒ぐ。
『JR宇治駅近く、和室のみ押さえました♡』とのことだ。
「冴姉ぇ、あたしらもどうしようか。サリオスにも会えれば、最高、だよね」
「あ、ヴェルトライゼンデも。淀の長距離は三頭の中では一番合っているんじゃない?」
果凛と冴がニヤリとしながら『お邪魔じゃなかったら、宇治の宿にご一緒させてください♡』と提案する。
宇治から京都競馬場のある淀までは京阪電車で約三十分程だ。
「サリオスが出走したら、当然、応援しますよ。コントレイルに負けるなって」
自分の立ち振る舞いに気づき、頬を紅潮させた惠は表情を誤魔化すように大声を張り上げる。
『懸命な走りをしてくれれば、いいんです』ともいうと、住民たちは頷いて同意する。
『オーソリティも会いたいですねぇ』と鞍さんは『サトノインプレッサにもですねぇ』と二頭の馬名を挙げて悩み始めた。
改修前の京都競馬場で最後となるG1に住民たちは気が早くも菊花賞へ想いを馳せる。
「コントレイルが三冠達成したら素直に『おめでとう』って言いましょうね」
「その時はダービーの際に飲み込んでしまった、その一言を素直に言おうぜ」
先程はサリオスの2着に複雑な思いをみせたファンの惠と果凛でさえ、コントレイルの無敗の三冠制覇を意識していた。
なんだかんだいって強い馬を素直に評価できるのがシェアハウスの面々だ。
果たして、何処までが現実で、何処までが夢のままなのであろうか。
今年という状況が本当に恨めしい。

「生涯一度だけでいいから、サリオスがコントレイルに勝たないかな」
そう惠が囁くとメーテルリンクの「L'Oiseau bleu」、『青い鳥』を思い浮かべた。
『青い鳥』はチルチルとミチル、2人兄妹は夢の中で過去や未来に幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、結局は自分達に最も手近なところ、鳥籠の中にあったという有名な童話だ。
「私にとってコントレイルとサリオスはチルチルとミチル」
そういう惠に果凛がもう一つの見解を示す。
「もう一方でコントレイルとデアリングタクトというコンビもあるんじゃない」とも。
無敗の牡牝二冠馬も永遠の相棒にして目標なのか。
鳥籠を脱し飛び立って、どんな結果になろうとも究極を求めて走り続けて欲しい。
「ヴェルトライゼンデ、馬名は世界旅行者の独語だよね」
冴が惠の『青い鳥』のイメージを繋げる。
「早く人々が世界旅行できるといいなぁ」
果凛のその願いに救われる。
「来年以降でしょうけど、香港、ドバイ、豪州、北米、そして欧州にチャレンジして欲しいですね、その四頭は」
優が果凛の願いをコントレイル、デアリングタクト、サリオス、ヴェルトライゼンデへと紡ぐ。
『いや、今年の世代なら牡牝合わせて上位十八頭はG1クラスだ』と冴が希う。
鞍さんが静かに口を開く。
「今の鳥籠のような日本での『クラッシック』から解き放たれた彼ら彼女らが世界中で暴れまくって欲しい…」
「…日本でフルゲートが全てG1馬というレースを観てみたいわね」
シェアハウスの女神もそう夢想していた。
来年以降かも知れない、住民たちも同じく、そう夢想する。

今年のクラッシックは牡牝とも『無敗の三冠馬』がテーマとなった。
それならば、秋は『秋華賞』と『菊花賞』だ。
果たして、シェアハウス住民たちは『秋華賞』と『菊花賞』の当日は何処で何をしているのか。
それはまだ誰にも分からない。
ただ、競馬が続くなら秋のG1シーズンでも予想大会を中心に仲良く『馬鹿な騒ぎ』を起こしているのだろうが。


第七章、了。


この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。



参考文献
ワインといっしょに! 81の美味しいレシピ
著者 植野 美枝子
池田書店

楽譜がすぐ読める 名曲から学べる音楽記号事典 CD付き
監修 齋藤 純一郎
ナツメ社

メイドと執事の文化誌 英国風家事使用人たちの日常
著者 シャーン・エヴァンズ
訳者 村上 リコ
原書房

新装版 図説 英国メイドの日常
著者 村上 リコ
河出書房新社
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